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株式会社田中俊行建築空間設計事務所は、用途・規模・構造を問わず、あらゆる建築作品を設計する事務所です。

コラム 2010年

1月5日 「謹賀新年」
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 今年も宜しくお願いいたします。

 大晦日は会社にてあるプロジェクトのスケッチを描いており、危うく気付かずに年越しするところでした。毎年の事ですが元日の午後から仕事を始めており、すっかりおせち料理やオトソは縁遠くなり少々寂しさを伴いますが、電話が鳴らない日々を心地よく思い筆を滑らせていました。

 今年は良い一年となる事と信じ、気持ちよく年度内の仕事を終えることが当面の目標です。そしてこのコラムも気付けば6年も書き続けているようで、段々文章が長くだらしなくなっているように感じますので、短くキレのある文章に改善すべく、精進しようと思います。


1月12日 「健康診断」
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 週末に数年ぶりとなる健康診断をしてまいりました。
 今年一年を占うおみくじのようなものでしょうか。いったんこのような診断をすると、今までまったく興味がなかったくせに結果が待ち遠しく思うのは私だけでしょうか。


 昨年末から、「追いかけられているかのように」日々休まず働いております。この時期、右脳を必要とする仕事が偶然にも数物件重なり、多くのスケッチを描きながら「この手の仕事であればいくら忙しくても心地よい」と本業の中の本業に費やす時間を楽しんでおります。


 年齢と共に「体力の低下や体型の悪化」は仕方ないことで、右脳が診断されない健康診断の結果は、私の生活に影響を及ぼすまいと認識しております。


1月20日 「噂話」
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 新年会での話ですが、私のコラムを読んでいるある方が「最近の田中君はおかしい」と言ってたらしく笑われました。
 確かに昨年から“猫ネタ”が多くなりましたが、最近は私の口笛に猫が鳴き返すようになり、「そろそろ会話ができるようになるぞ!」と思っていること自体、「おかしい」と思われても仕方がないことだとニヤツイテおります。
 設計チームスタッフも猫好きが集い始め、猫が人間に変身して私の仕事を手伝ってくれているかのようです(今も猫がバルコニー越しにこちらを見つめております。)。

 夏目漱石のような文才があれば「ワレラハ猫デアル」という文章でも書いていることでしょう。


 黒川先生の下を離れ、クソ真面目にコツコツ働く事約7年。

 建築を創る欲望と共に目指すべき方向や目標を追い求め、気付くと休暇に抵抗のある身体になっており、その限界を感じたのが昨年秋。
 そう言いながら正月も休まずスケッチを描き続け、春にはやっと芽が出そうだと少々喜びを感じていましたら、私自身の妙な噂話を耳にしました。世の中不景気という事もあり、こういうこともあるのかな…と顔の見えない発信者を気の毒に思いつつも、 これだけ単純明快で純粋に生きている私に対し、偽りの話を作っても騙される人はそういないだろうと発信元の作者にお伝えしたいモノです。

 このような噂話のストーリーよりは、「ワレラハ猫デアル」の方が上手く書けるかもしれない…“根拠のない自信”を猫がくれたようです。


1月28日 「診断結果」
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 大事に育てていた万年青の赤い実を、鳥が長いクチバシで器用に挟み、私と目が合うと急いで逃げて行きました。また会社の出入り口扉の前には、猫の毛だまりを時折見かけます。

 ここでなにやってんのよ…と悪戯好きな鳥や猫に寛大な気持ちで接しております。
 ある物件の現地調査には猫が数匹現れ、私の写真撮影のカメラ内に納まりたがり、帰る頃には車のボンネットで昼寝をしておりました。
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 私が犬派だというのは、もう通じないかもしれません。


 健康診断結果が届き、予想通りの結果でした。
 体型が悪いのと肝臓の鍛え方が甘くなっているとの評価でした。再検査など格好良く書かれていましたが、再検査したところで変化はないだろうと笑顔で書類を処分させていただきました。


2月3日 「バタバタ 」
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 先週のコラムのせいで、私の体調を心配してくださるメールを数通頂戴してしまいました。
 “酒飲み”の社会人ならば、皆指摘される程度のモノなので、ご心配ないよう願います。

 どうにも忙しくテキトウなネタを探して健康診断の結果を書こうと思ったのと、それだけではツマラナイので“猫ネタ”を軽く付け加えただけの軽いコラムだったのですが、誤解を招く結果となりました。


 毎日バタバタの状態で、朝出社してからあっという間に暗くなり、そしてあっという間に時計との戦いとなります。来週こそはしっかりとしたコラムを記しますので、今週はこの辺でご勘弁ください。


2月8日 「黒川イズム」
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 今月17日から、今年初の父島へ行ってまいります。


 昨年、奈良へ骨休めに行った際、田中の作品達はここまで永く生かせてもらえないのだろうなぁ…と寂しさを感じました。大きなお寺だからミレニアム建築になれるのか、巨木を使用しているからか…そんなに簡単には片付けられない力を感じているから、自分の力のなさを痛感しているところです。

 巨匠である建築家の作品を考えてみても、それは限りなく不可能に近いのが現状です。地震国であるという事だけが理由なのではなく、たとえば私の師の代表作である中銀カプセルタワーも建替えるか否か協議の真っ只中のようです。


 「どうすれば永く建てさせてもらえるか?」と考え、「建て続ける事だ」と思えたのは、本当に未完のサグラダファミリアだけではなく、日本の寺院らにも残る未完表現に学んだからです。工事中のように瓦が余分に乗せられたままになっていたり、柱が逆さまに設置されていたりと日本文化の奥深さを感じております。


 そんな考えもあり、私の想いを伝えるべく、3月13日に日程変更された「人前で話す」際の題材に、中銀カプセルタワーの建替え案を自分なりに講演しようと思います。
 黒川イズムについて、私は私なりにできる事をしようと考えております。それは純粋に黒川先生への感謝の気持ちがあるからだけでなく、学生の頃から教科書以上に勉強した黒川イズムが、常に時代を先読みした思想であったと認識しているからです。


2月15日 「父島へ」
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 今週水曜日朝から父島へ出張します。
 父島初上陸から14ヶ月が経ちましたが、気付くと現在進行形で4物件になっていました。心から感謝せねばならないと思っておりますが、上陸する度に「まだ島に事務所開設していないの?」と島の方々から笑われ続けた結果が、このようになりました。
 まだまだ設計依頼されそうな気配もありますが、私はこの島で設計しようと思った初心だけは忘れぬようにしようと思っております。

 意味のない建築を建てない、意味のないデザインはしない、意味のない設計報酬は貰わない、意味のない建築家になってはならない…など。


 私がスタッフに勤務日報のつもりでメールしていたモノが、知らぬうちに「父島出張日記」となり公開され、その反響がかなりありまして、続けているうちに止められなくなり、今回も後日公開されるはずです。
 また何かあるのだろうなぁと思いながら、鯨のダンスの夢でも見ようと思います。

 乗船前、手荷物の中に猫が隠れていない事を必ず確認しようと思います。


2月23日 「出張後期」
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 父島から戻りました。
 生憎天候に恵まれず、傘は不要でしたが、上着がないと寒いくらいでした。

 帰社した夜は脳ミソが揺れている状態でしたが、お土産に頂戴したスターフルーツ(写真)とラム酒で、スタッフらと酔っ払ってしまいました。

 その内に出張日記が更新されると思いますので、“猫好きな方”または“物好きな方”は楽しみにしていてください。
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3月2日 「津波」
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 私が父島へ行く予定が一週間早まらなければ、一昨日(日曜日)の船で父島から戻る予定になっていました。
 船は元々日曜日の14時に父島出航予定だったのですが、津波のおかげで深夜24時過ぎにやっと出航したと聞きました。到着も今朝7時30分頃だったようで、船中2泊・30時間以上の渡航になったようです。

 もしこれを私が経験していたら、社内は大変な事になっていたはずで、そうなる確率があることを覚悟して出張せねば、父島で仕事をすることは不可能だということを、今回改めて感じさせられました。


3月9日 「別れ」
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 今週土曜日に、「黒川紀章から学ぶミレニアムハウス」という講演をしますが、その前日の黒川先生の月命日を最後に、毎月続けていたお墓参りを小休止しようかと考えています。

 亡くなって約2年半の間、雑誌や講演会等、機会があれば自分なりの黒川先生像を伝えて来たつもりですし、今回の講演も「中銀カプセルタワー」を柱に話をする予定ですが、黒川先生への追悼の気持ちを表現することは、一応このあたりで一段落かと考えるようになりました。
 また(いまさらではありますが)、墓にいつも黒川先生がいると思えなくなった事や、当時先輩方から頂戴したアドバイスをようやく理解できるようになった事も理由かもしれません。

 そのような訳で、今週末の講演会は「師の死とのお別れ」になると感じております。


 昨年の3月に記したかと思いますが、私は3月を「別れの月」と感じていて実はあまり好きではありません。しかしながら、今年は年度末で納品ラッシュとなっているうえ、20日からはまた父島へ行く事になりました。

 肝臓は日々のストレス発散に付き合わされヘトヘトかもしれませんが、“ウコン”という援軍を得て、私自身はパワーアップして今年度を乗り切ろうとタクランデオリマス。


3月16日 「お礼」
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 徹夜明けの朝陽を浴びるのが嫌いでなく、いくら忙しく徹夜をしてもその時間は小休止し、外を散歩します。堅く重たいまぶたが光のおかげで薬をつけたかのように軽くなり、今日一日働く力を一瞬にして得ることができます。


 土曜日の講演はおかげさまで無事に終える事ができました。多くの方にご協力いただき、ヘタクソながら私なりの表現と訴えができたかと思います。ありがとうございました。


 今週末から父島です。今はその事をまったく考えられないくらい忙しく、机上に積まれた紙の山に埋もれてウンザリしながら過ごしております。


3月30日 「四十肩」
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 薄々感じていたのですが、私の左腕が挙がらなくなっており、強引に上方へ動かすとかなりの痛みを伴います。「37にして四十肩か」とガッカリしております。運動もせず、毎日パソコンとニラメッコをする日々でしたので、当然といえば当然なのですが、体力に自信のあった若かりし頃の自分が聞いたらどう思うだろうと…。


 父島出張日記を更新する時間がないほど忙しいのは確かなのですが、今回の出張では、奇跡とも思える至近距離で、クジラとイルカと戯れてしまいました。
 更新できるのは4月になってからと思われ、今は「時間よ止まれ」と祈りながら激務をコナシテおります。


4月6日 「雑談」
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 新年度になりました。

 いろいろ述べたい事はありますが、新年度になっても前年度の仕事を持ち越ししてしまい、忙しい日々はまだ続いております。
 今年度は少し落ち着いた一年にしたいと思いながら、先延ばしにされた仕事の山をニラミツケテおりますが、来月会社が7歳の誕生日を迎えることもあり新年度に想うことは多いのです。


 まず、中国は愚かな日本が憧れたNew Yorkになってはならないという想いに反し、真似るだけの力量しかない現代の民族性を残念に思うのが一点。

 日本という国に田中が必要とされないのならば、そろそろ私の生きる場所を探さねばならないと思い、冗談半分に外国語を学び始めたのが一点。

 父島での時間の使い方を、改善せねばならないと思ったのが一点。

 四十肩の痛みから、これはまずいぞと自分なりに運動をしようと思ったのが一点。

 この忙しさへの対応に限界を感じ、スタッフ増員しようと思ったが面接する時間がないという現状に頭を悩ましているのが一点。


 ………以上。
 今年も猫が何とかしてくれるのではないかと思いたくなるくらい、近所の猫達が私に忘れ物を伝えようとトオセンボウをしたり、微笑み話しかけてくれています(写真)。

 学び始めた外国語が、猫語に変わらないよう願いながら、今年度は“猫ネタ”でゴマカスコラムは控えるよう努めます。
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4月13日 「被爆国」
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 中国にて「覚せい剤を密輸しようとした者」への刑に、私は全く異議ありません。数度記しておりますが、阿片(アヘン)戦争で国が滅び、どの国よりも薬物にナーバスなのは当然で、この件を「中国からの助言または忠告」と思わねば、やがて平和ボケ日本も大変な事になるでしょう。いろいろな国がいろいろな歴史と文化をもち、それぞれの国が守り通さねばならないモノがあるのは、人類存続の為であると思います。

 「では、日本は?」といいますと、世界で唯一の被爆国です。
 日本の政治屋代表がその会議の為公費を使っているようですが、私なら「覚せい剤も原爆も大勢の人生をムシバム悪である」と訴えることでしょう。数年後に保有数を1500発に減らす等論外で、「核を保有する事、それに代わる兵器を持つことが安心」という社会的理念が根本的に誤りであり、ジョン・レノンのいう「国境がない世の中」、黒川紀章のいう「文化も歴史も国境を超えて共生する世界」を何故目指せないのか…。

 被爆国につながるかは分かりませんが、日本がアメリカ化してしまった事への反省も世界に発信すべきと思います。アメリカをウラヤム日本が成長し、日本文化を捨ててアメリカモドキとなりました。失われたモノは環境も含め計り知れません。
 数千年の歴史と言われる中国やドバイが今それを目指し、インドが続きます。私が投資家ならば、それぞれの文化を継承・保存しようとする団体に投資するのが最良と思います。加えて、核兵器を何らかの安全なエネルギーに変換するビジネスも狙いドコロでしょう。

 ただ、中国の「一人っ子政策」は日本の「ゆとり教育」に匹敵するくらい弱くて軽く薄っぺらい結果を生んだと感じざるを得ません。「ゆとり戦争」として世界史に刻まれる可能性もあるのかもしれません。


 思いつきですが、グローバルに考えると首都移転先は広島なのかもしれません。米軍基地の移転先は関空でも成田でも羽田でも良いでしょう。
 大阪ミナミか北新地もしくは六本木や歌舞伎町で、沢山お酒を飲んでホステスと遊んでもらい、夜中の「アルコール戦争」となれば四十肩の私でさえも猫軍と同盟を組めば、カチイクサも夢ではないのかもしれません。
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4月22日 「twitter」
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 “様々なコミュニケーションツールがある事は理解できる”という前提で、私はtwitterを認めておりません。

 あまり細かくは書きませんが、人間がアニメのB級キャラクターの拡張となり、「見られたい、教えてもらいたい」という欲望に「見たい、教えたい」という欲望が合致した結果で、更に「助けたい、商売したい」と続きます。
 いわゆるフォロワーと呼ばれる人々はボランティア活動がメインですが、中毒になるとかなりの危険を感じざるを得ません。相手の目を直接見て話すよりも、フィルターを通してやわらかい楽な気持ちとなるツールを選択したくなるのは、人類の進化ではなく衰退と感じてしまいます。
 更に小さな会社経営者は特に、社員が勤務時間中に仕事をしているフリをして、あるキャラクターのフォロワーとして過ごしていた場合、給料を払うのは誰かと真剣に考えるのは私が情けないくらいの貧乏性だからかもしれません。

 流行を否定する理由として、このような社会を皮肉った私の卒業論文を読めばご理解いただけるかと思うのはお堅い話で、最近の私自身のフォロワーは“猫”であるかのように感じております。
 私の行動を多くの猫が見物し、行動に誤りがあれば助言訂正し、良かれと思う方向にマネキ導いてくれているかのようです。


 3月に行った講演会の内容に、ある建築雑誌が興味を示してくださり、6月あたりに掲載されることになりました。
 私の頭の中を披露するのは初めてで、本当はバルセロナで初披露しようと企んでおりましたが、日本のメディアがスタートとなりました。


 5月11日から父島出張です。
 最近公開しました最新の父島出張日記で、“奇跡のクジラ”と“猫のようなイルカ”をご覧になれば、ストレス生活の休息となるかもしれません。


4月29日 「ツキユビ」
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 数ヶ月前に左手の小指をツキユビしました。
 第一関節と第二関節の間が今でも痛く、痛いのに指は曲がるから骨折ではないと思っているのですが、AとZのkeyを打つのに少々違和感があります。


 忙しいのと疲労感で、頭よりも先に指が動き、勝手な文章を記してしまい、これはまずいとDeletekeyを連打する事もしばしば…。
 私の中で私が二人以上存在しているかのような錯覚を感じます。指と目で議事録を記していても、右脳は他のプロジェクトのスケッチを描き早くペンを持ちたいと思い、左脳ではスケジュールや電話番号を思い出して、あっという間に夜になり、あっという間に腹が鳴り、焼酎を呑んで「今日の昼は何を食べたか」思い出せずに布団に入ります。
 「体や心が病む前に、この生活を何とかせねば…」とここ数ヶ月本気で考えております。


 指にあまり負担なく仕事ができるのはこのMechanikcal Keyboard のおかげで、軽やかな音と共に、指の疲労を軽減する構造となっております。
 一日に何万回キーボードを叩いているか分かりませんが、他のキーボードを利用したときに、その違いをツキユビが教えてくれました。


 AとZくらいなら窓の向こうで歌っている猫らでも叩けるかもしれない…と猫の手に期待するほど、まだ脳ミソは壊れておりません。


5月10日 「春の陽気」
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 会社の花たちが競うように咲き始めております。

 特に万年青の当たり年らしく、既に5つの芽が出てきております。忙しく手入れができなかったスパッティも5つのつぼみを出してくれまして、社内を和ませてくれております。
 昨年はGWにアサガオの種を植えたのですが、今年は忙しくて諦めざるを得ませんでした。昨年収穫された種たちには、来年まで待ってもらう事になりました。

 春を満喫したいのですが、実際はスタッフもGW返上で午前様になるまで働いております。
 こんな時に猫の手を借りることを妄想して猫を眺めますが、この季節は猫も振り返らずにほのぼの余暇を楽しんでおります。
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 連休前に脇腹が痛くて病院へ行きました。
 いよいよ肝臓が駄目になったかと覚悟して行きましたら、肋骨が…という笑い話しでした。

 医者を前にして第一声「酒を飲み過ぎた結果かと思うのですが…」と発してしまったので、血液検査等されたのですが、医者には私の発言は信じてもらえなかったようです。
 「この程度の数値では、あなたがいうような大酒飲みではない」と女医から遠回しに、“田中は虚言を吐いている“”と言われました。
 ただ、他の部位で欠陥を見つけられ、薬を飲む生活を強いられました。飲んでいるフリをして1ヵ月後再検査に行ってやろうかとニヤリ。
 女医さんでなければ「じゃぁ一杯行きましょうか」と言うのですが、まぁ自分の肝臓能力を褒めるに留めます。


 こんな馬鹿な事を考えてられるのも春の陽気のおかげで、早く仕事を終わらせて陶芸や油絵、買いだめした本を読む等したいのですが、それは儚い妄想となりそうです。


 こんなバタバタ状態で、明日から父島出張です。
 建築雑誌の6月号に掲載予定を7月に変更してもらい、船の中で原稿を書く予定です。

 戻ってきたその日が弊社の7歳の誕生日です。
 日曜日だから誰にも祝われずに脳ミソ揺らしながら一人祝杯を挙げる予定です。


5月17日 「7周年」
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 日曜日に父島から戻りました。
今回はマンタが現れたり、亀に「帰るな!」と怒られたり…いつものように愉快な出張でした。


 竹芝桟橋から会社へ直行するとスタッフは普通に仕事をしていて、お花や電報・メールを頂戴しなければ“祝いの日”だという事を気付かないくらいでした。
 毎年多くの方からお祝いを頂戴してありがたく思います。皆様に支えられてこの会社は成り立っているのだとつくづく感じます。今年はようやく会社がしっかりしてきたかと思えるようになり、少しずつステップアップできるように努力していこうと思います。

 現在かなり忙しく、気の利いた文章も書けずにいます。今月一杯は激務に侵されており、来月からは笑いながら日々送れるよう祈っております。


5月27日 「最後の一口」
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 忙しい私にとって、昼食時が唯一の休憩時間となります。
 激務は今月末まで続きますが、「知らぬ間に食べ終えてしまう」、「何を食べたか覚えていない」という13時の反省がないように、スタッフに買ってきてもらった弁当を味わっております。


 栄養のバランスを考えた弁当が多く、おかずの種類も豊富で、少しずつ口にして味わっているはずが、直ぐに半分となり、次の瞬間にその半分になります。一口ずつ残ったご飯と漬物とおかずと味噌汁をニラミつけ、食後口の中に残る香りを想像しながら、食べる順番を考え妄想して、正気に戻ると空箱になってしまいます。
 お茶を飲みながら、その香りが消失していくのを残念に思い、目の前のモニターを見るとメールがドッサリ。急いで片付けて、頭を悩ませ返信し、モニター右下の時計が13時になるのを見る度に、最後の一口が何だったのかと、一瞬だけ今さっき食べた弁当のことを思い出すようにしております。


 改めて「食事はもっと感謝しながら頂戴せねばならない」と、九州の家畜たちから教わりました。


5月31日 「休息1」
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 5月までの忙しさは半端ではなく体調不良の原因となり、6月は休息の月としようと考えており、基本的に仕事はしません。 会社にはいますが仕事ではなく、自分の頭を整理し、建築家としてリセットする1ヶ月にしようと思います。 疲労困憊しているスタッフにも休息を与え、7月からの再スタートまで精力を蓄えさせようと考えております。

 ………という事で、会社に連絡頂戴した場合に、いつもの美声ではなく、田中本人がいきなり受話器を手にするかもしれませんのでご了承ください。
 5コール以上電話に出られない時は、ロクロを回しているとご判断ください。


6月8日 「休息2」
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 会社でゴーヤの種を蒔いて水をやっていたら、アサガオの双葉が出てきました。父島から持ち帰ったトラノオに水をやっていたら、ルコウソウの双葉が出てきました。

 共に、昨年の種が落ちていたのか芽が出なかったのか不知ですが、生命力とは素晴らしいと感じました。ゴーヤの種を嫌って先に芽を出したか、トラノオのマイナスイオンに癒されて芽を出したか…言葉は返ってきませんが、これでまた夏にバルコニーを賑わしてくれる事になりそうです。


 7月に掲載される原稿を書き終え、ハカラメを土産に友人を誘い、浅草神谷バーで一杯飲みました。
 デンキブランをタラフク飲み、オリジナルの「一丁目1番1号」という小さな焼酎ボトルも軽く空けました。心地よい風と共に隅田川沿いを歩き、疲労回復を願いました。

 友人から「最近のコラムは、“猫ネタ”ばかりで建築について書いていない」と指摘され、過去に猫派の友人宅に柴犬を連れて居候させてもらった事を懐かしく思い出しました。
 ご指摘はゴモットモでして、しばらく建築の文章を書いておりませんでしたが、「建築ジャーナル7月号」に4頁程“建築っぽい文章”を書いていますので、それでご勘弁いただければと思います。

 ………休息の日々はまだまだ続きます。


6月14日 「休息3」
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 昔から数学が好きで、難問であれば難問であるほど解くのが楽しくなります。解くのにも独自の美学があり、ある意味建築にも勝る芸術だと思っております。

 T大学の難問を見せられ、眠っていた意欲だか闘志が沸いてきまして、約20年ぶりに数学脳に切り替えて解いてみました。
 答え合わせをした際、長い数式の後に私と同じ数字を見つけた瞬間は、忘れられようとしていた快感でしたが、何よりも長々と数式で解いた回答例よりも、図解で美しく解けたそのプロセスがたまらなく快感となりました。

 この解き方は他人に自慢したくなるほど美しく、この仕事をしている事もあり、若かりし頃よりも右脳は発達しているのだろうと思いました。“図解”といいましたが、ベースとなる「回転をX軸、時間をY軸」にして解きました。
 この発想は、塾通いしている若者には思いつかないだろうなぁ…と自己満足。

 受験や単位取得というストレスから開放されて数学と向き合ったからこのような美しい解が生まれたのかもしれません。
 マンネリ化しつつある、建築との勝負に関しても、ストレス無く向き合えれば、今まで以上に美しい建築が創れるようになるのかもしれません。


 休息の日々はまだ続きます。


6月24日 「休息4」
コラムタイトル07-01

 そろそろ仕事をせねばならないと思いながら、「もう少し休んでも良いだろう」と悪魔ではなく天使がささやきます。油絵の筆を持ちながらロクロを回す力は湧かず、読書をしながらゴーヤやアサガオらの成長を楽しんでおります。

 読書といえば、私と同じ大学研究室だったジャーナリストが本を出版したと噂を聞き、購読しました。その本を読んでいると学生の頃にタイムスリップし、その方と話をしているかのような…不思議な感覚に包まれました。
 お会いしなくなってから15年くらい経ちますが、同感できる事が多々ある一方、その表現の自由度が建築家にはないジャーナリストとしての魅力だと感じ、少々うらやましく思いました。


 その他、ひとの話しを聞きに行ったり、友を誘ってアルコール補給したりと、目の前の建築と向き合う事を避けて3週間となりました。いろいろ考えるはずが、意外と何も考えていない事にも驚かず、段々積み上がってきた仕事の山を横目に…。

 休息の日々はもう少し続きます。


6月30日 「作図」
コラムタイトル07-01

 仕事放棄から1ヶ月。

 描かねばならない図面がたまり、流石にもう描かねばと思い、仕事をしております。休息中は建築を建てる意味や、どうしても建築に固守せねば生きていけないのかなど、知人の話しを聞きながら考えておりました。
 特に今月は、建築家協会の保存問題委員の方々との交流もあり、建てる責任を重く感じました。この図面のこの一本の線が重責であるはずなのに、それが安価で軽視される社会へとなりつつある事に抵抗を感じております。安価な線は、現場作業員の士気を下げ、建築の出来栄えに影響します。これに応じてか、現場作業員のレベルも下がり、日本の建築は何処へ向かっているのか…。


 「さぁ働くぞ!」と新物件の契約の為に駐車場へ行くと、愛車は「働きたくない」とダダをコネ、仕方なくタクシーで移動しました。
 帰社後、仕方なくディーラーを呼び、バッテリー交換してもらいました。しばらくカマッテやれなかったとはいえ、タイミングよく機嫌を悪くする様が、雨宿り中の野良猫のようでした。


7月8日 「極貧世代」
コラムタイトル07-01

 不景気と少子化で、私よりも若い建築家はかなり減少しているであろうし、その中で頑張っている人はかなり苦労しているのではと思います。私は30歳にして何の後ろ盾もなく独立しましたが、今の社会状況でもそうしたかと問われれば、やはり同様の行動をとったであろうと感じます。
 私の世代は、バブル世代とゆとり世代に挟まれた“極貧世代”と勝手に自分で名付けておりますが、「もうひと踏ん張り突っ走らねば、哀れな極貧世代と上下世代に笑われる」と猛進しております。


 来週38歳になります。明日から出張で、今年の誕生日は父島出張中となります。
 人ではなくウミガメらに祝ってもらえるのも粋なモノですが、自転車で転倒し肋骨が右も左も痛くて、寝返りができない状況であるにも関わらず、船に揺られなければならない苦痛を想像すると、アルコールの力に頼るしかないかと…言い訳の必要十分条件に苦笑しております。


7月16日 「素数」
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 父島で38歳になってしまいました。

 父島は竜宮城のようで、こちらに戻っておじいさんにならないかとアホな事を考えておりました。久しぶりに日焼けまでしてしまって、髪を坊主にしたときと同じくらいこの黒さを恥ずかしく思います。


 誕生日が月も日も素数であるので、1から100までの数字をグリッドに並べ、素数が何処に配置しているのか書き出しました。これを見ているだけで地球儀を眺めている時以上に、世界が無限に広がるように見え、机の前に張り出してウットリしております。
 数学者を悩ますこの数字を、数学好きな建築家が解けないものかと、しばし手を休めて夢見ておりました。


 こんな事をボーっと考えていて、気付いたらジイサンになっているかもしれません。


7月23日 「肋骨」
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 すっかり忘れておりましたが、父島から戻ると肋骨の痛みが治まっておりました。
 父島のおかげなのでしょうか。

 自転車で歩道を走ると歩行者にニラマレ、車道を走るとクラクションを鳴らされます。ゆっくり走るときは歩道、速度を上げる時は車道と自分なりにルールを決めて港区内を走行しております。
 先日、打合せに向かう登り坂で、上から歩道を占拠する子供連れのお母さん2組を見かけました。すれ違う30m前で相手と目が合い、彼女は子供と話を始めたかと思うと10mまでの至近距離となっても4人並んで道を空けようとせず歩道を占拠しておりました。
 こちらは登り坂という事もあって、ブレーキを掛けたくないというのが本音で、いい加減道を開けろと思いながらギリギリまで辛抱しました。
 その結果、私が足をつき「おい!」というまで私を無視して歩いてきました。蚊の鳴くような声で「すみません」とは言われましたが、自分本位な社会を愚かに感じざるを得ません。

 自転車で転んで肋骨を痛めた事と、登り坂を汗だくになって登っていたからこのような気持ちになったのでしょうか。打合せに向かう途中だったからかもしれません。


7月26日 「少年」
コラムタイトル07-01

 猛暑の中、東京タワーを目の前にした交差点。私は信号待ちで汗だくとなり、イライラとしておりました。右を見ると、混雑していたからか真っ赤なアルファロメオが停止線で止まれずに横断歩道に乗り上げて停止しておりました。

 そこを横断する親子。
 母親は幼稚園に通い始めたくらいの子供よりも先を歩き、日傘を差しこの暑さにバテテいる様子でした。

 突然子供がそのアルファロメオの前で立ち止まりました。そして車のボンネットを叩き「さがれ!」と叫びました。運転手はカワイイ彼女を乗せた若者でしたが、苦笑い…少年は彼が下がるまで許さないという意気込みで、何度も何度も車を叩き、その言葉を繰り返しました。


 こういう少年が、将来総理大臣にでもなって欲しいと思う気持ちで眺めておりましたが、母親が急に彼を抱き上げ、運転手に頭を下げる仕草。
 抱きかかえられ、正しい事をしているのに大人から子供扱いされ、馬鹿にされているようで、どうしても許せないと嫌がる少年を見ていましたら、私が少年の頃に同じ体験をしていた事を思い出しました。

 私の場合は父親でしたが、抱いた父親を本気で殴って「おろせ!」と叫んでおりました。


8月2日 「銀座」
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 買い物で銀座に行く事が増えたのですが、隣客の雑音やマナーの悪さにイラッときます。更に辺りを見渡すと、中国語の案内や中国人に囲まれ、いよいよ銀座も中国人を受け入れたかと思うようになりました。
 銀座客人口の半数くらいは中国人に感じ(目立つだけかもしれませんが)、かつて日本人が海外の高級ブランド店を荒らしたように、中国人はその10倍の勢力で日本荒らしをしているように感じます。この勢いは相当なもので、そのうち日本は飲み込まれてしまうのではないかと思うほどです。


 今日が提出日のコンペがあり、久しぶりに自分らしい作品案を創れる喜びを感じておりました。「さぁ、仕上に入るぞ!」と思った一週間前、あるプロジェクト先から労働時間を奪われました。結果、コンペ案は納得できる案に達する事ができませんでした。
 「お前は何をしたくて生きているのか?」と自問しますが、言い訳もなく、すべて自分の責任とせざるを得ないこの状況下では、必死にストレスを飲み込んで飲み込みきれなければアルコールで流し込む日々となります。


 銀座で衝動買いのように買いアサル中国人をしばし眺め、これもストレス発散なのかもしれないと思ってやりたくなりますが、貧乏性の私には、あのような買い方は逆にストレスとなるでしょう。
 不甲斐ない自分をどうにかせねばと思いつつ、スタッフと共にうなぎを頬張りました。「何とか力をもらえないものか」という思いで、猫の手でも借りようと野良猫を探しましたが、ここ数日の猛暑で彼らはすっかり姿を現さなくなりました。


8月9日 「蝉」
コラムタイトル07-01

 金曜日の夕方だったか、蝉があまりにも大きな鳴き声で仕事の邪魔をするので、暑さで気が狂ってしまったかと笑っておりました。
 何時までも鳴き止まず、会話もできないくらいの鳴き声で何かオカシイと打合せコーナーへ行くと部屋で蝉が鳴いておりました。きっと外は暑すぎて、アスファルトの照り返しがない涼しい場所を探しているのでしょう。
 「この暑さの責任者であるにも係らず、暑さをしのぐのも自分だけのことしか考えない人間」への猛抗議だったのかもしれません。

 つい先日の現場打合せで、木の幹を登り、殻から抜けようとして抜けられなく死んでいった蝉の死骸を見かけました。待ちに待った最後の一週間を過ごせなかった蝉を哀れに思いつつ、彼は地上に出なければ良かったと後悔して死んでいったのかもしれません。


 土曜日の朝、激しい頭痛と共に起床しました。こんなに頭が痛くなったことはないというくらいの痛みで、軽い熱中症になったのかもしれません。


8月20日 「引越」
コラムタイトル07-01

 愛車の寝床を変えることにしました。
 まさに愛車が熱射病状態で悲観しておりましたが、都合よく「泉ガーデン」の地下駐車場が空いたので思い切って引越しする事にしました。熱さからは免れるのかもしれませんが、そこを利用する他の車たちは近づきたくもない高級車ばかりで、24時間管理人にニラマレ、愛車がフテクサレナイカと心配になりました。
 またその車を乗る人々も高価なスーツに身を包む方ばかりで、ダラシナイカッコウで出歩く私と愛車が場違いなモノと冷たい視線を浴びぬよう…なにもできないので視線を感じぬよう努めます。


8月27日 「教え子 」
コラムタイトル07-01

 盆休みもなく図面作成にヘトヘトとなり、やっとの思いで提出し、夜に建築家協会の会合に出席しておりましたら、会社から携帯に電話が入り、聞くと私が学生時に勉強を教えていた子たちから連絡があったと…。

 会議が終わり懇親会を断って六本木に戻り、居酒屋へ。彼らが高校生で私が大学生だった時以来の再会で最も驚いたのは、彼らが私と変わらぬ年齢であったこと。当時は大分私が年上に感じておりましたが、この歳になると大差ないものだと(あたりまえの話ですが)。

 話は尽きず、忘れ去られようとしていたあの頃の記憶が蘇ると同時に、勉強だけでなく、いろいろな事を洗脳させられた彼らが、立派な大人になっていた事を嬉しく思いました。

 彼らとの勉強生活とオウムのサティアンを比較して、卒業論文の一部にして評価を得たという事も懐かしく思い出させていただきました。あれから15年以上の月日が流れ、私は彼らに公言したことをまだ成し遂げられていない事を少々恥ずかしく思いました。
 明日からまた頑張ろうと思います。


8月30日 「カマキリ」
コラムタイトル07-01

 「明日から頑張ろう」と思ったのは先々週の金曜日で、とはいえどうにもならないくらい身体が悲鳴を上げていたのは先週。スタッフから有名な整体を紹介してもらい、駆け込むと「絶好調を何時から知らないのか?」と聞かれ、「中学3年から」と答えました。
 中学3年で腰痛持ちとなり、高校のトレーニングでそれは激しくなり、大学で首を痛め、痛みが日常となり、痛みのない生活を忘れてしまいました。痛みを我慢する能力はそれを忘れようとする代わりにストレスを受け入れ、見えない負荷となるのです。

 ストレスのキャパシティには個人差があるとは思いますが、このキャパシティを超越すると人間は生きようとする気力を失うのだろうと推測しております。痛みがあってそれを感じる内はまだストレスはたいした事ではなく、痛いはずなのに痛みがない場合こそ身体が蝕まれているという事に気付いたのは、その整体により身体の痛みを全て出してもらえたからです。


 彼曰く、「整体する場合は、まず綺麗な姿勢・骨に戻すとそれに合わない痛みが出る、筋肉等をそれに合わせて整体しないといくらやっても治らない」と(少々言い方違うかもしれませんが)。
 私の場合、約20年以上も蓄積された患部が骨と筋肉を狂わせているようで、かなり硬直して重症だと告げられました。「1年以上かかりますよ」と言われた瞬間に、表に出されたこの痛みに1年も耐えられるか心配になりました。
 若かりし頃の私が聞いたら、きっと情けない醜態を嘆くことでしょう。


 肩を落として帰ろうとした駐輪場で、一匹のカマキリがトオセンボウしており、何かメッセージでもあるのかと、しばし眺めておりました。
 彼は私の目線で姿勢よく門扉につかまっており、私が門扉を開け閉め動かしてもそこから逃げず、ただ門扉と一緒に揺ら揺ら、ただしどんなに揺れても顔だけは私の方を向いたまま、視線は勿論私をニラミツケテいました。先日の蝉と一緒で、まだ昆虫とは会話ができずにおりますが、彼らが私に近づいてきているように感じるのは、この熱さで少々頭がオカシクなったからでしょうか。


9月6日 「小沢」
コラムタイトル07-01

 「何で俺だけが!」この言葉を最も発したいのは小沢さんでしょう。
 真実はメディアにより屈折し、特にテレビというメディアは宗教のように人々を洗脳します。政治と金は小沢さんだけの話ではないのに、小沢さんがその代名詞になってしまったのは、他がそれから逃れる為ではないでしょうか。

 真実が何なのか「虚偽」は社会に氾濫し、何が真実で何が嘘か、何が良くて何が悪いのか、情報化社会の中で人為的にそれは錯乱状態にさせられているといって過言ではないでしょう。

 少しトゲのある言い方ですが、社会が価値のあるモノと判断するのは、テレビで評価されるものが多くを占め、テレビで評価するモノとはテレビ会社や広告代理店に金を払ったモノとなります。テレビを作る人間の気分で社会は右往左往しております。
 「流行」とはそういったモノで市場がマンネリ化しないように仕組まれており、それは至って幼稚な行為であり、それに対して振り回されている人々は自分も含めて「愚か」としかコメントできません。


 特に小沢さんを応援しているわけではありませんが、彼を観ていると、黒川紀章の事を思い出します。
 もし彼のように純粋な少年の心を持っているのであれば、小沢さんの終点は近いのかもしれません。


9月21日 「平和なはずの商店街-1」
コラムタイトル07-01

 ある商店街の欲深いラーメン屋は、アルバイト代をケチり、味や接客手法は隣の蕎麦屋から盗みました。
 町内会長のステーキ屋は、パチンコで貯金を失ったのと漏水による配管工事でラーメン屋から金を借りました。

 町内会のお祭はラーメン屋の店前で盛大に行いました。「こんな事をやれるくらいなら自分の給料を払え」と訴えるアルバイトのムナグラを掴み、沢山ニセモノの広告を出して、商店街で一番大きな店になろうとしております。ラーメン屋は店を広げたいので、「この商店街ができる前は、蕎麦屋の一部は我々の土地だった」という偽りでダダをコネ、馬鹿がつく程ノンキな蕎麦屋は町内会長のステーキ屋が助けてくれると信じております。

 ステーキ屋が「これについては両者で解決しろ」と逃げ腰になると、一気にラーメン屋は壁を壊し、カウンター席を残して店を占領します。
 手遅れとなった蕎麦屋がようやく文句をいうと、「昔お前は勝手にラーメン屋に入ってきたろう、それを末代まで土下座して謝れ」と商店街中に大声で騒ぎました。落ち込んだ蕎麦屋は数十年前に、アイスクリーム屋に屋根裏の倉庫を取られた事を思い出しました。対面のタバコ屋にはスタッフを引き抜かれ、見えない工場で働かせられ、返せと訴えると「もういない」という。
 その隣の焼肉屋は蕎麦屋をライバル視して揚げ足をとり、スタッフ同士は仲が良いのに、店同士はニラメッコ。

 あまりにナメラレタ蕎麦屋は町内会の役員に立候補するも、票は足らず。蕎麦屋の常連客は味が落ちたと店長を責め、ここ数年蕎麦屋の店長は1年も経たずに数人変わる。
 豪腕といわれるナンバー2はつり銭をゴマカシテ店長にはなれなかった。


 こんな蕎麦屋は、商店街でやっていけるのでしょうか?


9月28日 「ヒント」
コラムタイトル07-01

 先週のコラムで意味不明な文章を記し、数名の方から?を頂戴し、解読ヒントを掲載させていただきます。

 パチンコで貯金を失った=リーマンショック
 町内会のお祭=オリンピック
 屋根裏の倉庫=北方領土
 蕎麦屋の店長=日本の首相

 これだけヒントをあげれば読めると思います。


10月5日 「雀」
コラムタイトル07-01

 お堀を散歩した後に国立劇場で三曲演奏会を聴き、日本の音色を身体に沁みこませようかと考えながら、演奏開始10分前のエントランスで椅子に腰掛け本を読んでおりました。

 庭園からお堀を眺め、陽射しと風を感じ、ふと気付くと私は20羽くらいの雀に囲われておりました。チュンチュンと鳴き、歌うような雀も、私の足元で首をかしげて眺める雀も、皆が私の動きに注目している様子でした。
 「誰かが餌付けしての事」と思いたいのですが、ベンチは数十メートル連なっており、そこに腰掛けているのは私だけではないのに…という不思議な空間でした。

 おばさまの集団がその空間を壊し、雀は何処かへ行ってしまいました。独りで残念がっていましたら、一人の女性から声掛けられ、チケットをくれるといわれました。数度断っても強引に渡され、そのチケットを持って席に着きました。

 私には無縁だった箏と三絃と尺八の音色は、自然に身体に沁み込んでくるような感覚で、無縁であったのに懐かしさを感じました。


 雀を忘れられない帰路で妄想は続き、「猫のことばかり書いていたので大敵の雀が怒ったか…。」そんな馬鹿な事を考えて歩いていたら隣の最高裁の警備員にニラマレテおりました。


10月5日 「名札」
コラムタイトル07-01

 腰痛と戦いながら立川に向かう中央線。


 読書をしていた私の前にご年配の女性が立っているのに気が付き、「座りますか?」と声をかけるとあっさりと「良いですか。」と返されました。誰もが私を健康なオッサンだと思ったでしょう。
 腰を抑えながら席を立つのも嫌味なので、どこも痛くないフリをして、立ち姿で読書を続けました。腰痛が増し「これはまずい」と車両を替え、空席を見つけ安堵しました。

 吉祥寺を過ぎたあたりで何故か人が増え、私の前にまた女性が立っていました。どこか調子悪そうだったので「座りますか?」と聞くと、「えぇ、障害があるもので。」とまたあっさり席を譲ることになりました。


 立川での仕事を終えて、会社に向かう中央線。

 空席がないので腰をおさえてシルバーシートへ。隣に私よりも若い女性が座っており、「分かっているよな…。」と視線を送りました。

 国分寺のあたりだったか、本のページをめくる私の前に人の気配を感じ、祈りながら顔を上げるとやはり年配の女性。隣の若者は下を向いていて、あまり時間をかけるのも格好悪いので腰に手を当てながら「どうぞ」…と。

 断ってくれ…と思っていたが「ありがとうございます」と返され、近くにいた女子高生2人組みには不思議そうな目で見られました。

 座らせてもらえない車中で本も読めず、<私は酷い腰痛に侵されております>と名札を付けようかと真剣に考えました。

 たまにしか乗らない電車で3度もご婦人に席を譲るとは…。


10月11日 「枯葉」
コラムタイトル07-01

 黒川紀章が亡くなって3回目の秋。
 土曜日に、当時事務所があったビルの地下にあるレストランを貸し切り“先生を偲ぶ会”が催されました。

 私は10分遅刻してしまいましたが、店に入った途端にマイクを持たされ乾杯挨拶。
 何の準備もせずに元上司+歴代OBがズラリと並ぶ中、ドッキリカメラのようなシチュエーションでショウモナイ挨拶をしてしまいました。「前もってお話しをいただいていれば、少しは気の利いた挨拶ができたかもしれない」という後悔はあるにせよ、とても心地よい時間を提供してくださった‘主催者の方々’に感謝申し上げます。

 他の設計事務所を知らないので比較のしようがないのですが、黒川事務所のOB及び現役で働く方々は、仮に口が悪くとも優しさを強く感じます。参加者の中で男性では最年少の私にでさえも、丁寧にご助言をくださり私には大切な財産だと感じます。

 酒を飲みながら、この黒川DNAを持する集団で何かせねばならない事があるだろうと考えました。

                     ☆  ☆  ☆

 それから、どうしても書き留めておきたい話がもう一つ…頭がオカシクなったと思われても仕方なく、自分でもアホだと思うのですが………。

 私は毎朝バルコニーの扉を開け、サンダルを履き、ジョウロを持して植木に挨拶しながら水をやりますが、水曜日の朝サンダルを履こうとすると、サンダルと扉の間に一枚の見たことのない枯葉が…猫が届けに来たかとニヤリとしていました。
 それが、木曜日の朝には2枚目の枯葉が置かれており、金曜日には3枚目と続き、2枚目はあっても3枚目の偶然はないだろうと驚いておりました。
 更に土曜日の朝、扉を開けると4枚目の枯葉が置いてありました。
 「雀からの貢物か??」と笑うしかありませんでした。

 そもそも、枯葉が飛んでくるような場所ではないし、ここらで見たことのない葉の形状でどれも同種のようです。


 しかしながら、酒を飲みすぎで寝坊した日曜日の朝と祝日である月曜日の朝、扉を開けると4枚のまま。
 少々の安堵感とともに「不思議な事があったな…」と植木に水をやり、朝飯を食べておりましたら、外で猫の大きな鳴き声………バルコニーに出ると猫の姿はなく、5枚目の枯葉が置かれていました。

 同じ場所に同じ葉が毎日一枚ずつ増え、5枚になりました。
 この枯葉は何かに化けるのでしょうか。


 明日から父島出張です。
 猫はこの事を知って何らかのメッセージを送ってきているのでしょうか。それとも天国から猫を遣ったイタズラでしょうか。


10月25日 「朝顔」
コラムタイトル07-01

 もう10月も終わろうとしているのに、弊社バルコニーに植えられた朝顔は咲き続けております。夏に咲かず葉は焼け、可哀想に感じておりましたら、9月中旬から満開となり、現在に至ります。

 窓を開け蚊取り線香の香りを漂わせ、治療をサボリがちのせいで痛みの消えぬ腰痛に滅入りながら、咲き続ける朝顔の強さに脱帽しております。


11月2日 「東町小学校」
コラムタイトル07-01

 「新築ではなく改修の時代がやって来るだろう」ということで、3年前に弊社で改修設計の仕事を始めました。

 改修設計という仕事は、ライフサイクルコストをはじめ新築時の設計者の考えや施工誤差を見極め、現代のニーズに合わせること、更には使える部位や使えない部位・隠蔽部はどのようになっているのかを読み取り、環境に配慮した設計をせねばなりません。

 弊社から自転車で5分程度の距離に「港区立東町小学校」という全校生徒数が60人程度の学校がありますが、その学校を何とか区内でも人気のある学校にしたいという意向もあり、縁あってその改修設計と監理をさせていただきました。
 1年目に屋上防水と緑化を行い、2年目に外壁と給食室と設備改修、3年目の今年はグランドとガス設備を改修しました。


 ひと通りの改修が終了した先週の日曜日に、晴れて運動会が催されました。
 3年もお付き合いしていると学校関係者とも少しばかり親しくなり、自然と情が湧いてきます。運動会にお招きいただきましたことを嬉しく思いました。しかしながら、同年代の父兄も駆け回る中、私はアキレス腱が気になり何の競技にも参加できなかった事が悔やまれます。


11月4日 「平和なはずの商店街-2」
コラムタイトル07-01

 蕎麦屋に対するラーメン屋の圧力をうらやましく思ったアイスクリーム屋は、かつて蕎麦屋の屋根裏部屋にいらなくなった荷物を置いていたことを思い出した。この荷物を捨てて返そうと思っていたが、蕎麦屋の反対を押し切り屋根裏を調査し、「まだまだ使える」とニヤリとしながらリフォームする事を決めた。
 若い蕎麦屋の番頭は、ラーメン屋とアイスクリーム屋の店長に対し、ムナグラを掴んで文句を言うと、蕎麦屋の店長は「まぁまぁ…」と言いながら番頭の肩に手を置き、二人に頭を下げる。ニヤリとした二人は手を組み、さらに圧力をかけようとヒソヒソ話し。

 ステーキ屋は見て見ぬフリ、タバコ屋は「スキあらば自分も何かもらおう」と聞き耳を立てる。焼肉屋は踊り子を店の前に立たせ、ヨダレを垂らす蕎麦屋の店員から金を取り、自分の店でなくて良かったと安堵の表情。

 さぁ、どうしたら良いものか…と頭を抱える蕎麦屋。
 その一部始終を見ていた常連客は店長が悪いとまた身内でゴタゴタ。たまたま店で蕎麦焼酎を飲んでいた浪人が、見るに見兼ねて立ち上がった。(つづく)


11月12日 「浪人」
コラムタイトル07-01

 昨晩、私の友人知人13名で酒を飲みました。

 私は皆を知っていますが、それぞれは初めて会う者も多く業種もバラバラで、一体どんな会になるのかと思っていました………が、かなり楽しい宴でした。
 皆で夢を語り、笑い叫んでいたらあっという間に終電で、それでも騒ぎ足らずに酒を飲み、結局皆タクシーで散っていきました。ラストオーダーと言われて一升瓶を注文するなど、店にはかなり迷惑をかけた感がありますが、「まぁ~許してください!」ということで。
 木曜日の夜にこんな騒ぎ方をして、いったい私以外の12名はちゃんと会社に行けているのでしょうか?


 「平和なはずの商店街」と題してコラムを書いていますが、どうして“蕎麦屋”はこんなに弱いのか、強くなれないのか、商店街は仲良くできないのか、できない理由は何か…と私なりに昭和史を勉強し真剣に考えております。

 若き頃、年号を暗記する歴史の授業が嫌いでサボっていた私には多少の後悔あり。
 “浪人”を登場させて少し暴れさせようかと思ったのですが、その責任は店長の管理責任だと責められ、ラーメン屋に対して矛先が向かなくなるのもオカシナ話で、「この“浪人”、実は船乗りだった」というわけにはいかないという想いもあります。
 この“浪人”が蕎麦屋にとっての救世主であって欲しいと思うのですが、まだまだ私には先が見えません。


 昨晩集まった13名が浪人役となり、蕎麦屋を救えるようになるには時間がかかりそうですが、薄っすらと遠くの方から光が見えてきそうな感覚になりました。


11月22日 「母島」
コラムタイトル07-01

 2年前から父島の仕事をしていますが、更に南にある母島の設計業務も頂戴しました。現在父島で2件工事監理をしていて設計は2件、工事発注前が1件あります。母島では2件の設計を委託され、トータル7件となってしまいました。
 来月に渡航しますが、この7件を3泊4日(+船中2泊)で対応してこなければならず、今はその準備に追われております。


 杉並区和泉の長屋の設計がひと区切り付いたので、新宿区内藤町のビルの絵を描き始めております。
 描くにあたり、知識を得なければ…と思い、社交ダンスの競技会を見学しました。私にはどれもこれも初めての体験で、衣装や演技・観客から審査員までかなり独特なモノで驚かされました。
 今でも脳裏で誰かが踊っており、他の事を考えられなくなります。おそらく図面を描き終えるまでそれは続くと思われ…他の仕事に影響を及ばさぬよう努めます。


 12月に渡航する船中でこの建築の意匠を考えようと思っているのですが、頭の中ではダンスと身体は船で揺れ、母島へ辿り着くまでにメチャクチャになって余計にまとまらないのではと懸念しております。


11月24日 「だろう」
コラムタイトル07-01

 世論は軽く楽な方に流され、ブレる首相よりもさらにブレる傾向にあります。ストレス発散のように失言を取り上げ、謝罪すれば辞めろといいます。

 我々は、近隣諸国がこれだけの状況にありながら、「攻めてはこないだろう」という「だろう」が都合よく「確信」へと変化し、これだけ国が危険な状況になっていてもその言葉を馬鹿が付く程真面目に信じてしまっております。
 かつての日本は、ナチスは負けないだろうと手を組み、ソ連は攻めてこないだろうと不可侵条約を信じて南へ進軍し、外国の植民地を奪えば米国に対抗できるだろうと、強力な軍事力を夢見て戦いました。すべて「だろう」で真珠湾に艦隊がおったまでは良かったのですが、それが敵国から暗号解読されていたのだとすれば、非常に愚かな歴史で尊い命を失ったとしか言いようがありません。
 「だろう」はすべて覆り、予告なく原爆を落とされ、8月14日に白旗を揚げ、15日に昭和天皇がラジオ放送された場面へとつながりますが、それを知って「白旗仲介の相談」をしていたソ連はシタタカニ満州へ攻め込んできている訳で、一方的に不可侵条約を解除され、終戦の手続きも知らないアホな日本は多くの人々を失い、シベリアに連れて行かれ、北方領土問題へとつながるのです。


 昭和史を勉強すればするほど、それを愛する事はできなくなり、我が祖先は一体何をしていたのかと苛立ちます。しかし、唯一そこから学べる事は、二度と同じ過ちを犯さないという事かもしれません。
 戦争をしないという偽善者的思惑ではなく、都合の悪い事を「だろう」に変えて、それを確信に変化させない事が、何の罪もなく死んでいった祖先からの贈り物なのかもしれません。

 国を守る人々への悪口に加え、これだけ頼りない政治屋が日本を統治しているかと思うと、頭が痛くなり、そろそろ二・二・六事件の再現があって然るべきと思わざるを得ません。政治屋はそんなことないだろうと思っているでしょう。
 自分たちは権力者だろう、多少の汚いお金をもらってもいいだろう、外交はうまくやっていけるだろう、米国を信じていれば大丈夫だろう、拉致被害者はいつか帰ってくるだろう、近隣諸国は攻めてこないだろう、領土は守られるだろう、経済はきっと誰かが立て直してくれるだろう、将来はきっと幸せになれるだろう………。

 この「だろう」がすべて否定される日がやってくるかと思うと、世論をもてあそぶメディアの責任も重大だと感じます。


11月29日 「建築家育成」
コラムタイトル07-01

 売れない建築家がいうのもなんですが、子供さんが「建築家になりたいというのだが…」と聞かれた場合、必ずお伝えする事は「おもいっきり遊ばせること」と言います。

 机上の勉強なんかはしたくなったらすれば良く、18歳になるまでの数年勉強すれば東大にだって入れます。大勢で遊んでいれば、コミュニケーション能力が生まれ、語彙力も自然と身につきます。遊ぶには体力が欠かせなく、これだけ忍耐と共に働いていると「幼き頃から走り回っていたおかげか」と感じます。
 壁当てをして怒られたのも、芝生で殴り合いの喧嘩したのも、階段から飛び降りて競争したのも、ゴミ置場でプロレスをしたのも…すべて今の自分に生かされております。
 ブロックで遊んだ話は以前しましたが、ボール競技で遊べば物理の力学を自然と取得でき、ザリガニ釣りで沼に足を取られないように工夫し、探検ゴッコで暗順応に感動したり、様々な遊びを覚えていれば、机上の勉強はあとからついてくるモノです。2次元のゲームは3次元の感覚を鈍らせます。スポーツ選手こそ物理の実演者だとも思います。


 加えて「遊び」について親が関与、干渉しない事です。
 子供は自分のアイディアで遊べる能力があるのに、大人が遊び方を教える風習があり、これでは想像力豊かな建築家にはなれません。アイディアはもらえるものではなく、自ら考えて生み出すものと教育させるには、失敗しても干渉しないで欲しいと思います。
 ヒントも与える必要ありません。


 雑談をひとつ。
 幼い頃、サッカーや野球を公園でしていたら、当然ヘタクソですから公園の外にボールが出てしまいます。公園の周囲には高さ2m以上の生垣があって、その生垣がボールを跳ね返してくれたり、吸収したり、スルーします。その奥に高木があって、高学年の子供が登っていたりしましたが、彼らでも登れない木が一本ありました。
 彼らは我々が通るたびに木の上からドングリを投げて攻撃してきましたが、それをかわしながら遊ぶのが年功序列の掟のようなものでした。

 ある日、ヘタクソな私はボールを取りに行く事になり、遠回りするのが面倒で、スルーしたその穴をくぐり、ボールを取りに行こうとしました。するとその開口には足を掛けられる枝があり、上を見上げると身体の小さい私には丁度良い梯子のような枝たちが隠れておりました。外からは葉で隠され見えず、私がその枝を登って視界が開けると、高木の枝が続き、誰も登れなかった高木に登る事ができました。
 次の日からこの高木は私の基地となり、誰もがうらやむ立派なツリーハウスとなりました。私よりも身体の大きな子供は生垣の枝を登る事ができず、台風に壊されるまでは私の城でした。

 半袖短パンでしたから当然毎日傷だらけで、家に帰って心配されても勲章のように見せびらかしていました。数日後、近所からクレームが入って初めて私の基地を知った母は、笑顔で謝っておりました。


 親が子供と遊ぶ姿を微笑ましく思うのが今の常識なのかもしれませんが、危ないから止めろと言われ、こうやって遊べば楽しいだろという押し付けは、私の中では苦痛にしか感じません。おそらく今の子供たちも苦痛だと思います。
 文句が言えないだけで、怪我をしてでも登りたい木があるだろうし、その時にしか登れない木もあるのです。木から落ちて骨折する友人もいましたが、皆で病院に運ぶのも友情の証です。
 「親に連絡しないでくれ」なんて骨折した友人が言ってそれを皆で守っていたら、次の日廊下に立たされましたが、皆が笑顔でした。今考えれば当然その日のうちに病院から連絡が入っているわけですが、子供には子供の社会があるわけです。
 それを全部取り除こうとしているのが「子供をペットのように扱う親たち」で、子供の為ではなく自分らに従事させる満足の為なのです。


 こんな事を記したくなったのも、学生が就職活動についてデモを行ったと聞きました。
 私だったら…同世代で共同体を作り、全員就職はしないとボイコットすればよく、「自分たちの年代から下の世代は年金を払わない」と断言し、若者だけの会社を作り、自給自足するくらいの覚悟を持って訴えて欲しいと思ったからです。
 何時までも親の世代から押し付けられ、自由を失い、ストレスだけが蓄積される、このショウモナイ社会を何とかせねばなりません。

 ………と、エラソウに言うわりに、私は子供や家庭とは無縁の生活をしており、その子孫繁栄に協力できない分、学校改修等の設計で積極的に協力していこうと考えております。


12月13日 「道」
コラムタイトル07-01

 先週水曜日に父島・母島から戻りました。
 行きも帰りもこんなに船が揺れたのは初めてで、船中みんなゲロゲロの大合唱でした。船に慣れ三半規管が狂いだしている私は、薬を飲まなくとも平気で過ごせ、介護に回れるようになりました。
 詳しくはそのうち更新されるであろう出張日記で。


 一つだけ記しますが、私と同部屋だった方は行きも帰りも同一人物で、ガタイの良い自衛隊関係者でした。
 「母島へ行く事でまた少し硫黄島へ近づく」と喜んでいた私の話を聞いて会話は盛り上がり、防衛大学よりも早稲田の建築を選んだ事を不思議がられ、消えかけた当時の記憶を思い出す事ができました。

 彼曰く、防衛大学に行っていれば今頃100名近くの部下がいたし、運転手付きの生活だったろう…と。
 給料も高額らしいですが、聞けば聞くほど、私には勤まらなかったろうと思いました。私が選ばなかった道を選び、現在私がいるかもしれなかったポジションにおられる方、是非頑張って欲しいと思いました。
 同時にスサマジイお誘いをお断りして、建築を選択し小さな設計事務所を営んでいる事に後悔しないよう日々精進しようと思います。

 ただ、自衛隊というのは「何でも屋」だと聞きました。
 橋であろうがカップだろうが何でも自分たちで作るとのこと。この言葉を聞いたとき、自衛隊なら私の建築を理解してくれたかもしれないと余計な事が頭をヨギリました。


12月22日 「師走」
コラムタイトル07-01

 バタバタのフル回転と忘年会ラッシュで、師走を感じるようになりました。海外で生活する友人からクリスマスカードが届き、年賀状の準備を怠っていた事に気付きはしたものの、それに手を付けられない忙しさは、果たして喜ばしい事なのでしょうか。


 ………とテキトウなコメントをしたところで、今週が勝負のバタバタバタバタの毎日で天皇誕生日をニラミつけております。
 この忙しさの中、かなりKYな祭日だろうと…。


12月27日 「仕事納め」
コラムタイトル07-01

 弊社の業務は本日でおしまいとさせていただきます。

 あっという間の一年で、正月とお盆にスケッチを描いた大きなプロジェクト2件がメインの業務となりましたが、大小たくさんの仕事を頂戴できたのも皆様のおかげと感謝申し上げます。

 今年一年は体調が優れず、生きる意欲がどんどん衰弱していくような気分でしたが、優秀なスタッフに支えられ、真面目に治療へ通えるようになりましたのも感謝せねばならぬ事かと思います。
 激しい運動ができなくなった為、「昭和」について少し勉強できた年でもあり、日本だけではなく世界中の社会が悪い方向へ邁進している様子を見るに堪えなく、政治だけでなく教育や介護、人間の生き方や死に方、世論やメディア含め、混沌としたザマを何とかできぬものかと頭を悩ませたのは現在進行形でもあります。
 「建築家の領域を超越した話」と思われるかもしれませんが、私にとってはそうでもなく、格好良く言えば「未来意匠瞑想(≠迷走)版」です。


 建築業界でこんな事を言うと刺されそうですが、私はこの不景気を喜ばしく思っております。「何でも金を借りて建てろ、建てろ!」と騒いだ時代から、建てる意味のあるものだけを建てる時代になって欲しいと願います。
 皆が「建てたらこの地域や社会が良くなる」とか、「解体時に反対運動が起きる」というような建物だけを建てる社会になって欲しいと思います。建築は金稼ぎの道具になってはなりません。建築家も金稼ぎの道具になってはいけません(賃貸マンションを否定しているわけではありません)。

 街中を歩けば、無表情の建築が「所狭し」と建ち並び、量産できる工業製品の陳列棚のようなまち並みを、人は「美しいまち並み」というようになりました。建築基準法だけでなく、景観条例でも建築家は拘束され、「表現の自由」は明らかに失われております。誰もが設計できないモノを作るからこそ建築家といえるはずなのに、誰でも作れるモノしか作れない世の中へと変容しつつあります。


 来年にはきっと体調も良くなり、上記問題を解決すべく小さな活動ができるようになる事を目標としております。同時にこれを読んでくださっている皆様、私と同年代の方も多いかと思いますが、それぞれがそれぞれの分野でご活躍されることを祈ります。
 説得力ありませんが、健康第一、笑顔第二。

 それでは良いお年を!


バナースペース

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