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株式会社田中俊行建築空間設計事務所は、用途・規模・構造を問わず、あらゆる建築作品を設計する事務所です。

コラム 2011年

1月6日 「謹賀新年」
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あけましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いいたします。

 年末から昨日まで酒を断ち、独りこもって油絵を描いていたのですが、3日から急に体調が悪くなり新年早々困ったものだと感じております。今年の目標は、この体調不良を改善し、建てたい建築に対して万全の体制を整えられるようにすることです。

 年末のコラムに記しましたが、現在の社会と私の脳ミソのズレにより「建てたい建築≠建てられる建築」であって良いと思えるようになり、たとえ実現できなくとも「建てたい建築」を描き続けようと思います。
 馬鹿なヤツと笑うかた多いかもしれませんが、媚びられずこのような生き方しかできない不器用な男であることご了承願います。


1月14日 「責任」
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 読みたくなって購入したままになっている本が10冊以上あるのですが、本を読むか油絵を描くか天秤にかけ、仕事以外の時間を費やしているため、あまり進まずジレンマを感じます。
 休日に、ある美術館へ行き写実絵画を眺めました。写真よりも美しく描くその手腕に感動しましたが、同時に自作とのレベル差にガッカリ肩を落として帰ってきました。
 ただ改めて絵画というメディアは、写真のそれに勝るも劣らぬものであると実感できました。美しく描きたいという欲望の表現に加え、「魅せる」という責任が伝わる絵を前にし、自らの建築への探究心の欠如を痛感しました。
 その他いろいろ思う事有り、また後日記します。


 正月の夜にテレビを付けたら、モデルのような若い女性が、街中でところかまわず一般男性をつかまえて、股間を見せろという番組でした。
 目を疑いましたが、顔をニヤツカセ見せる男らを気分よく見ることはできませんでした。勿論、半分ヤラセなのでしょうけれども、これを見た人々がどのような印象をもつか、その責任を番組責任者は分かっていない。
 それともこれが普通とされる世の中なのか…そうでない事を信じたいものですが、日本男児は弱くプライドを失い、女性は恥じらいもなく品格を捨て、理性なき乱世を描いているようで恐ろしくなりました。


 社会に対して画家は魅せる責任があり、建築家は建てる責任があるのと同様、テレビ業者にも電波を発信する責任があるのは当然で、視聴率しか考えていないこの低迷したテレビというメディアは、単なる見世物小屋としての価値しかないと思わざるを得ません。


1月17日 「真実」
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 伊達直人のニュースが賑わい、少しだけ社会が明るくなりました。

 寄付やボランティア活動は、わざわざニュースにならなくともされている行為であるのは勿論承知しておりますが、どのようにして寄付をしたら良いのか分からない人々には、良いきっかけとなったことでしょう。
 「タイガーマスク」というアニメは、勿論知っている世代ですが、この時代と現代のアニメの質は明確に異なってしまいました。私は子供ながらにそれを感じており、その境界となったのが「Dr.スラ○プア○レ○ゃ○」です。
 それまでの少年向けアニメは、「悪に向かって立ち向かう、貧しくとも頑張り強くなり弱き者を救う、世界平和の為に戦う」といったようなモノが主流でした。当然、「タイガーマスク」「戦艦ヤマト」「巨人の星」「ガンダム」もそうでした。
 血気盛んな少年の心を、強くたくましくかつ社会貢献や人情を育てる役割がありました。

 しかし、アニメは「Dr.スラ○プ」から変化し、ロボットとはいえ、産みの親を笑いながら殴り飛ばしたり、家を破壊したりと散々なアニメが誕生しました。その後、このアニメがどう影響しているか…代々のアニメや現在の一般家庭の環境、教育を想起ください。

 漫画家が訴える「表現の自由」は確かに必要ですが、「社会への責任」も付随します。楽しければ良いというのは、先週のコラムと一緒で誤りです。
 子供の育成に勉強よりも影響することであるので、アニメは擬似社会かもしれませんが、子供には教材同等以上の影響があると認識すべきは漫画家の責務であり、出版社もご留意願いたい。


 世界史も日本史も真実が何かまだ分からずにおり、勝者や強い者のみが歴史を記している限り、アニメよりもこの現実社会から得る情報こそがフィクションなのかもしれません。


1月25日 「福豆」
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 宴の席での楽しい話を数回記していますが、それとは逆に独り静かに酒を飲むのも嫌いではありません。

 大勢で酒を飲むときのツマミは彼らにお任せするし、少数で飲むときは店のオススメを頼んだりします。独り静かに晩酌をする際は、乾き物や枝豆・漬物のような至ってシンプルなモノ達がテーブルを飾り、焼酎を引き立てます。

 安い焼酎の味を楽しむには、水分が少なく味もシンプルなツマミを欲します。ちなみに、私の中での最も好物なツマミは、節分の豆まきに用いられる「福豆」です。
 どうしてこの豆が1年中売られていないのか文句を言いたいくらいで、この季節に店頭を賑わす福豆を買いだめしております。


 節分には一応豆まきらしきことは行いますが、貧乏性の私はご想像のとおり、「鬼は外!」は一粒、「福は内」では口の中に放り込み、この絶妙な味を堪能しております。


2月1日 「生きている橋」
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 先々週の金曜日に右足首を痛め、ほとんど歩けない状況でした。
 身体全体の治療をしているから怪我をし易くなっているのは仕方ないと思わねばならないようなのですが、約1週間ほとんど歩けない状況はとても厳しい日々でした。足首を切り落として、この痛みから開放されたいと願ったほどでした。

 数名のお施主様に醜態をさらし、ご迷惑をおかけしました事、お詫び申し上げます。おかげさまで足首に関しましてはほぼ完治しました。再発せぬよう歩き方にも注意が必要なのかもしれません。


 インドのナガランドに、「生きている橋」があるとテレビで知りました。
 私の「生命体としての建築」同様で、樹木の根で橋を作り、25年の歳月を経て橋としての機能を持するそうです。

 根が橋の構造部材となるように竹の筒に根をはわせる様は、「生命体としての建築」に通ずるものがありました。いわゆるツリーハウスと異なるのは、樹木の上に小屋のようなものを作り乗せるのとは異なり、樹木根や枝の成長が建築・橋を作るということです。
 私の思想がピタリとはまるこの地方………その昔、「首狩族」として知られた地域だったと放送されなければ、飛んで行っていたかもしれません。


2月9日 「写真撮影」
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 パスポートの期限切れに気付いてはいたのですが、特に海外へ行く予定も無かったので放っておりました。今年になって突然、海外の仕事が舞い込みそうになり、パスポートを取得する為に都庁へ行きました。隣接する写真屋で、頭を傾けこっち向けだの右肩を下げろ、あごを引け、メガネを上げろと指導されながら証明写真を撮りました。

 数分待たされた後、現像された自分の写真を見て驚きました。
 あれだけ指導されたのにもかかわらず、私のボサボサ頭は写真内に納まっておりませんでした。確かにこんなアップでなくても良いだろうと思う写真でしたが、カメラマンの的確なご指導に対し、髪の毛だけは反抗していたのかもしれません。


2月15日 「脱メンテナンスフリー」
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 木曜の夜に4回目となる仲間との大宴会が催されました。異業種の仲間が集い、総勢14名での酒盛りは、あっという間に時が経ち、酒に酔いました。
 周囲に迷惑をかけていない事を祈ります。「大声で笑い、熱く夢を語る会」なので、参加ご希望の方は是非ご一報ください。次回は春に行う予定です。


 酔っ払いついでに出席者へ「今年の年賀状の余り」を配りました。そこに印刷された「生命体としての建築」のスケッチを説明したのですが、皆からの第一声は「修理しながらでないと…」とメンテナンスフリー建築が大前提というコメントでした。
 この言葉に裏付けされるように世の建築はメンテナンスフリーが流行り、無表情になりました。まち並みも無表情になり、それは都市・国家・世界へと拡張します。

 100年後に私の作品が残していただけている期待はできませんが、一人でも残したいと思っていただける方がおれば幸いに思います。特に住宅のお施主様に対しては「家族と一緒に建築も育ててください」とこれが完成形ではないという事を強く申し伝えます。
 このような建て続ける文化は日本古来のモノであるとは以前この場に記しましたが、「残される建築とは、残さざるを得ない建築」である可能性が高い事を、建築専門誌ではないある本を読んで考えるようになりました。


 最近寒いせいか、猫ネタがなくなり、少しはマシなコラムになってきたようにも思えますが、週末の雪降る中、コタツで丸くなっているはずの猫が、「遊ばないか?」と鳴きながらジャレテきました。
 春は近くまでやってきているのかもしれません。


2月28日 「少年の怪我」
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 全身の治療をしている件は数度伝えていると思いますが、特に痛めている首と腰を治せば完治すると思っていた事が、実は違うという事を数週間前の治療で教わりました。
 腰が痛くなったのは中学生の頃から、首は大学生の頃からで、前者は筋力トレーニングに問題があり、後者は自動二輪での事故が原因と思っておりました。
 しかしながら、全身のバランスを診てもらっていると、右足首に問題があるという結果になりました。数週間前に捻挫した右足首ですが、今はこの関節を左足首と同様に柔らかくしないといけないという事になっており、捻挫しやすい状況です。
 治療者曰く「両足首の柔軟性が異なるので、左右のバランスが悪く、それをかばう両足と尻はいつも筋肉痛で、腰に負担がかかり、そのバランスの悪さから首にまで影響が出ている」とのこと。


 小学生の野球少年は、冬季の放課後に学校で友人とサッカーをしていました。負けず嫌いな性格だったので、誰よりも強いシュート力を得る為、誰よりも遠くに飛ばせるように、暗くなっても練習しておりました。
 小学校5年生になるとクラスメイトに負けないキック力を得ましたが、その代償として右足首が左よりも曲がらなくなり、正座もできなくなりました。

 いつもは「今の私を見て、少年の頃の私は嘆くだろう」と思っていたのですが、今回ばかりは「今の私に謝るだろう」と想像しております。少年に治療費を請求したくなりますが、大学に入ってから今まで殆ど運動もせず、この歳まで突っ走れたのは少年の頃に培われた基礎体力(耐力)のおかげかと思い、これからは頭の中で仲良く付き合えるかもしれません。


3月9日 「神」
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 今読んでいる本にも書いてありますし、ある方からも教えてもらった事でもあるのですが、神とは人間であってはならないと思っております。いわゆる釈迦や達磨を始め菩薩や如来、イエス・キリスト等は“預言者”であり、彼らが神ではないと…。このように思っていないと、人間には汚い欲が出てきてしまうと考えます。
 信長が自分を神と崇めさせたのかどうかは詳しく分かりませんが、イスラームで問題となっている宗派にもこの相違点があると聞きました。

 「人は神にはなれないし、神は人ではない」

 数度記していますが、建築の神様はいると思っています。“預言者”に当たるのが、巨匠と言われる建築家だとすれば、我々の目標とするところは“預言者”なのだろうと認識します。その為に苦行にも耐え、往生できればと思う日々を過ごしているのでしょう。

 最近建築界の“預言者”に対して、“ピエロ”と言った建築家がいると聞きました。彼は“神”になりたいのかもしれませんが、身の程知らずといいますか、もう少し勉強された方が宜しいかもしれません。
 現在の日本人建築家の中で、欲を持たず“預言者”となるための修行をしている人間が何人いる事でしょう。己も含め…日々精進です。


 暖かくなったり寒く雪が降ったりの繰り返しですが、猫はもう我慢が限界のようで、昨晩も遠くから呼ばれました。テキトウに遊んでやったのですが、私にとってマネキネコも“預言者”だろうと思い、粗末に扱っては罰が当たると思いつつ、あまりの暴れっぷりにお互い目が合って笑ってしまいました。


3月14日 「祈り」
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 3月11日13時からの書類検査が何故か長引き、地震の際に最も安全な建物の都庁28階におりまして、超高層の揺れる構造体を実感しました。丹下さんを信用していた事と、船での揺れに慣れてしまっていたので、周囲で泣き叫ぶ女性とは異なり、至って冷静に地震に対応できました。しばらくして28階から階段で降り、電車は動かずタクシーはつかまらず、徒歩にて会社へ戻りました。
 コンビニやスーパーの食料品はなくなり、いつもはあまり立ち寄らない「客の少ない(蓄えのある)居酒屋」で二晩お世話になりました。


 2日続けて、近所の猫がニャーニャーと私を呼びました。鼻に小さな怪我をしており、地震が本当に怖かったようで、なでてくれと甘えてきました。「こんな表情したことないだろう」という人間のような表情に驚き、写真を撮りました。
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 今回の被災は、地震よりも津波の影響が大きいように思われ、今の構造計算は地震力に対する耐力計算であって、津波については都市計画・土木も含め今後の課題とせねばなりません。

 ………以上、至って平静な装いで文章を記しましたが、被災地の方を思うと胸が痛くなり、こんな状況下で金曜日まで父島へ出張していて良いのかと自問します。何かできる事があればと思いますが、そのような立場になく、一般人が行けるようになったらボランティアで東北へ行こうと思います。
 塩釜・多賀城・仙台・気仙沼・宮古それぞれのテレビ中継に映る人々の中に、音信不通の親戚や知人がいないかと探す自らの心の醜さを振り払い、親戚やその近所の知人だけでなく、一人でも多くの人々を助けて欲しいと心から祈ります。


3月23日 「マンモス都市崩壊の序章?」
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 震災後、多くの方からご連絡いただきました。私のことなど心配不要であるにも関わらず、余計なご心配をおかけしました。奇跡的に私の親戚は、皆無事であるという確認が取れました。ただ、故郷と思える風景はなくなりましたし、避難所生活のままの人や連絡の取れない知人もまだ数名おります。


 先週やっとの思いで父島から戻りまして、ようやく被災者の為に何ができるか自分なりに考え始める事ができるようになりました。4月になりましたら実行に移そうと思います。
 身体ボロボロの人間が「被災地へ行ってボランティア活動」と思うのはあまりに軽率なので、ある程度自分の技術を提供できる事をせねばならないと考え直しております。時が来ましたら、皆様に協力依頼をするかもしれませんので、宜しくお願いいたします。
 父島よりも、被災地に行く回数が増えるかもしれません。


 23区の飲料水に、乳児の基準を超えるヨウ素が含まれているいうニュースがありました。いよいよやってきたかと思いました。大した数値でもないのに都会は騒ぎ始めることでしょう。自ら作ったマンモス都市に電気を供給する為の施設が崩壊したのにも関わらず、奪い合うように水を買占めているようです。大使館は都心を飛び出し、外国人は自国へ戻る…大変だと騒ぎ立て、混乱をあおるメディアも何が真実か分からないようです。

 馬鹿と思われるかもしれませんが、私はまだ逃げません。


3月29日 「年号」
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 昭和から平成になるとバブルは崩壊し、それ以来景気は低迷し、阪神淡路大震災が起こって、就職難も話題となり格差社会へ。北陸でも地震があり新潟の原発の問題、更には学級崩壊や家庭崩壊、政治屋は自分の事ばかり考え外交もできずに隣国と敵対し、バラマキで借金を膨らませて国民をダマス。そして今回の大地震に加えて原発問題。
 とりあえず皇居は京都御所に移すべきかとも思いますが、マンモス都市の有り方を再考せねばならないとは前回のコラム。


 もう少し時間が経てば、国民は更に落ち込むかもしれません。どうすれば今までの生活ができるようになるか…ではなく、新たな生活スタイルを生み出すことでマンモス都市は再生できると思います。都市や国をどう構築するか、建築家なしで土建屋・デベロッパーにしか耳を貸さないからこのような都市になったのです。
 かつて黒川紀章氏が言ったように「東京をコンパクトにしなければならない!」を皆が認識せねばなりません。彼の思想(預言)は(亡くなって3年半が経ちましたが)、まだ最先端で有り続けております。


 卑弥呼は太陽神と言われましたが、日食に遭遇した為に殺されたという説もあり、その他にも災害や疫病が流行った際に、怨念駆除を言い訳にして大仏を建て、または年号を変えた事もあると本に書いてありました。
 今の世の中を見ると、不徳の年号と思わざるを得ません。上記理由により、まずは国を挙げて「年号」を変えるくらいの行動にでて、徳を得られないかと妄想しております。


4月5日 「階段」
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 事務所から電車で移動する際に、節電という名目でエスカレータの多くが止まっており、腰痛の私にはシンドイ移動となります。おまけに足首の痛みも再発し、東京電力から治療費が出ないかと思っております。更に、「電気代を上げる」と言っている方がいるようですが、逆だろうと言いたいです。
 民営化されている会社は、その責任を国家になすり付けてはならないのです。これが大なり小なり会社を経営する人間の責務です。今回の災害で何処まで国が手助けをするかは別として、東電という会社がしっかりと責任を取った上で、立て直すか国営化されるか他の電力会社に買収されないと国民は納得しないでしょう。

 私は昔からドコモ派でありまして、浮気をしたことはありません。海外で使えず、ボロボロになって通話が1分と持たない携帯を恥ずかしく思い、年度末に「森のケータイ」を得ました。ヒノキの間伐材で作られたボディは美しい曲線を描き一目惚れでした。タッチパネルの扱いに慣れるには時間がかかりそうですが、若者に馬鹿にされぬよう早く習得したいと思います。

 今年度もこの携帯を買って良かったと思える程、忙しく仕事をしたいと思いますが、復興支援活動も今週末からスタートします。土曜日に仙台入りしますが、気持ちとは裏腹に腰痛と足首痛が再発しているのが気がかりです。
 今週はこれ以上電車を使わずに、愛車にて移動させていただこうと思います。


4月11日 「東北魂」
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 週末に被災地を訪れました。福島辺りからは高速道路の段差が結構あり、愛車からスピードを出すなと怒られながらの旅でした。
 信号も付いていたりいなかったりと様々で、信号に目線をやっていれば突然の段差で飛び跳ねるなど、交通事故が何時起こるかも分からない状況です。車のスクラップ工場のような景色が続いたかと思えば、突然道路に大きな船が現れ、異臭と海風が入り乱れた場所もありました。


 親戚らには、特に連絡をせずに行きました。
 震災直後に連絡した際は、「特に不自由していないから大丈夫だ」と聞いていたのですが、実際に行くと水が出なかったり、食料が不足していたりと散々でした。場所によって不便さが異なっていることが、復興の遅れる理由かもしれないと感じました。加えて3月11日の震災から1ヶ月…ようやく家が片付いてきたのに、先日の大地震でまた振り出しに戻ってしまいました。

 そんな中、親戚らは皆笑顔で迎えてくれました。家を流された子供家族が集まり大家族となっている親戚は、食料が手に入らないというのに昼食までご馳走してくれました。そして、どこの親戚も「泊まっていけ」と言ってくれたのですが、私は早く帰ってこの人たちに荷物を送らねばならないと思い、とりあえず車に入れてきた水や食料を全て渡して日帰りしました。

 東北の人間は、心が強いです。逆に東京の人間は、自分の命乞いばかりしているように感じてしまいました。そして、被災地の状況を理解していないことを恥ずかしく思いました。
 「避難場所に行けば食料はもらえるが、家を失った人々からすれば、家のある自分たちが甘えているように思われるから我慢をしている」「放射能の事を気にしている余裕はないから、水も飲むし野菜も食べる」と聞き、如何に臆病な東京人と肝っ玉が違うか見せ付けられました。
 素晴らしい“東北魂”…私の身体に半分この血が流れている事を誇らしく思います。

 メディアを通して、多くの方々が寄付をしていると思いますが、それが末端まで届いていない現状を改善する為に、私は親戚に物資を送り続けようと思います。その物資が溢れれば、近所に分けてもらえるのが“東北魂”です。
 これを読んでいる方で寄付をしたいと思われる方いらっしゃいましたら、その金額の半分は被災地へ直接送るようお願いします。もしその手段がなければ、田中にご連絡ください。そこから周囲で必要とされる方々に配ることができるよう段取りさせていただきます。


4月20日 「継承する者の責任」
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 先週のコラムを読んでくださった方数名が、物資を送る等の協力を名乗り出てくださいました。感謝感激しております。特に、わざわざ関西から東北の親戚の家まで届けに行ってくれた黒川事務所時代の上司には頭が上がりません。私も頑張らねば…と継続支援への励みとなりました。
 また、知人から熱~いメッセージもいただき、人としてまたは売れない建築家としてどのように生きていくべきか考えさせられております。


 縁あって、丹下さんの代表作の改修設計をするお仕事を頂戴しました。
 現地調査に行きましたが、かなりのパワーに圧倒されました。それは力強くかつ美しく、後世にまで伝えたい建築だと思います。何度もコラムに記しておりますが、やはり建築は力強い方が美しいと思います。
 丹下さんが「どうだ、お前には創れないだろう」と笑っているようで、私はその作品をニラミ返しておりました。そして、「これだけの力作を創っておいて、あんなショウモナイ都庁を創ったのは何故だ!」と力が入ってしまいました。

 彼にガッカリされぬよう、また後世から恨まれぬよう、緊張感をもって設計業務を遂行しようと思います。そして私の作品たちも数十年後に、若い建築家から同じように想ってもらえるようになれば幸いです。


4月25日 「見張り役」
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 和泉の現場に仮設事務所や仮囲いが設置され、いよいよ工事が始まったと実感できるようになりました。今年度も忙しい一年になりそうな予感です。


 現在抱えている現場は5箇所で、その内の4箇所が小笠原諸島です。7月から父島への渡航がスタートしますが、かなりタイトスケジュールでのやり取りになるだろうと思います。世田谷での設計もスタートしてしまい、丹下さんの代表作の改修設計と共にバタバタの中、昨日父島から「新物件に関する郵便」が届きました。何とかスタッフに助けてもらい、建築の醍醐味を楽しみたいと思います。

 父島での出張の成果もあり、和泉の現場では鳥が応援歌を歌ってくれております。「歌を唄うだけではなく手伝ってくれないかなぁ…」と目を下げると、黒猫が背筋を伸ばして座っており、「見張り役くらいならやるけど…」と立候補してくれました。
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5月6日 「和睦」
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 911の事件から10年が経ち、ウサマ・ビンラーディンが殺害されたというニュースが飛び込んできました。アメリカ人が歓喜に沸き、「USA!USA!!」と叫んでいる映像を前に、違和感を覚えたのは私だけではないと思います。
 アメリカ人の悪口を書きたくありませんが、相手の事を考えずに挑発し、自分たちだけが正義だという自己主張ばかりで、国際テロは継続してしまうだろうと想像できます。

 私がオバマであれば、ウサマ・ビンラーディンを捕まえて、和睦を求めたと思います。優位な立場にある側が提案する事で和睦は成立できる訳で、一人の人間を殺害したからといって、異文化の溝は埋まらず深まるばかりです。オバマには期待していましたが支持率UPに利用した印象が強く、少々ガッカリしております。


 ある本に記されていますが、後醍醐天皇が足利尊氏を破り、尊氏が命からがら西国へ逃げた際、後醍醐側の戦略家楠木正成が「和睦を勧めた」という説があります。尊氏を蔑視し、それを拒んだ後醍醐は4ヵ月後に力を蓄えた尊氏軍に攻め込まれ、56年もの間、南北朝時代となってしまいました。


 己の欲の為にしか生きられないリーダーは、国や世界を混沌とさせます。
 日本の外交はどうなってしまうのか、オバマには何も助言できなかったのか…「異文化と共生できず、自分たちの文化や主張に合致できるモノだけを正義という国」とどのように付き合うべきなのか、日米同盟は世界に誇れる同盟なのか等々、売れない建築家の頭は破裂しそうです。


5月12日 「世界遺産」
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 金曜日に黒川事務所時代の関係者の数名で集い、アルコールを摂取しながら「東北へ何かメッセージを伝えよう」という事になりました。5月末に知恵を出し合う事になり、忙しくなりそうな予感がします。


 小笠原諸島がどうやら世界遺産になれそうだというニュースを聞きました。これからは人気スポットとなり、企業や設計事務所も多く入ることでしょう。良かったのか悪かったのか分かりませんが、私の父島での仕事は今年度で終わるかもしれませんので、次は東北の復興支援に力を注ぎたいと思います。

 それとは別に、実は来週火曜日から小笠原諸島以外の海外出張となります。


5月17日 「8歳」
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 週末に、2度目の被災地訪問をしてまいりました。まだまだ時間がかかりそうで、これを乗り越えるには相当な根性が必要だろうと感じております。


 昨日の月曜日に会社の誕生日をむかえ、満8歳となりました。毎年思うことですが「良く8年も続けてこられた…」とこの幸運に感謝します。
 そして、黒川紀章と対談をしてから4年が経ちました。その時に、崖の下に落とされた私はようやく崖からはい上がって来られたような気がしております。何をせねばならないのか、自分の使命は何か…などなど自分なりに整理ができつつあります。


 今日、これから飛行機に乗り、あるデカイ(?)プロジェクトの契約の為に海外出張となります。ただいま出張前のバタバタで、「あれを忘れた!これを忘れた!」という状態です。


5月25日 「出張後記」
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 中国の西安という古都へ出張してまいりました。不思議と無事に契約をすませることができました。

 西安はシルクロードの影響で、イスラム文化も混在し共生している良い都市だと感じました。また秦の始皇帝の墓地近郊の「兵馬傭」や傾いた「大雁塔」を見て、巨大な中国文化を目の当たりにしてきました。
 何処に行くにも雀が案内役で、英語も通じないようなグローバル化されていない地域でしたが、私には心強い味方がいたように感じました。
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 経由した北京空港は、日本の空港にはない美観をうらやましく思いました。同時に何故日本の空港は、ツマランデザインなのかとガッカリしました。北京空港内部にまで一羽の雀が見送りに来てくれて、綺麗な歌を唄ってくれました。
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 帰国するとそのプロジェクトのアイディアが自然と湧き出て、日曜日だというのに夜中までスケッチを描きました。翌朝、雀を思い出してニヤツイテいると、ヤキモチを焼いたドラ猫が背中を向けてガラガラ声でツブヤイテおりました。
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5月31日 「日本計画」
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 復興計画というよりは、今後日本がどのようにあるべきかを考えております。脳ミソをフル回転させて悩ませ、出てくるアイディアを冷静に選別しながらA3の裏紙に落書きし、回答を急ぐことなく冷静に導けないかと考えております。
 今は東北が被災地という印象が強いですが、実は関東でも被害を受けており、東北から発信するものの全国に通ずる、いわゆる日本全体の復興計画を考えております。誰にも受け入れられなければ、このHPで発信するかもしれませんし、どこかの壁に密かに貼っておくかもしれません。


 丹下さんの代表作改修も大詰めで、和泉の現場は毎週木曜日定例会議で、父島の現場も再開しそうで、西安も頭の片隅にあります。世田谷の仕事も早く動かさねばならないのですが、何よりも優先して復興計画を考えております。
 ほとんどの方がこんな私を笑うと思うのですが、何故か私に誰かが「お前は日本を考えろ!」と叫んでいるように感じてならないのです。


 突然記しますが、私は人間のためにだけ生きる建築家にはならないと決めました。近所の野良猫を筆頭に、あらゆる生命体や地球のために生きる建築家になります。


6月9日 「弱点」
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 知人(≒恩師)から突然連絡があり、「どうしてもお前に自分の診療所を設計して欲しい」と言われ、引き受ける事になりました。本人がこれを読んだら笑っていると思いますが、こんな強引なお施主様は初めてです。検討または戸惑う隙を与えず「当然やるだろう!」というサマです。「やります」と言ってもほぼ毎日メール+電話があり、「お前でなければ駄目だ」と連呼します。逃げないよう柵を作られているようなモノです。

 悪口を書いているように思えたら誤解で、このような方がいる事を本当に嬉しく思います。フィーリングや条件が合わずにお断りする案件もある昨今、ここまで“田中ではなければ駄目”と言ってくれる方は、独立して初めてではないかと思います。
 私はこのようなアプローチにかなり弱く、この人のためであれば私の人生の一部を捧げようと熱いモノがこみ上げてきます。あまりこのような事を記すと悪用する知人が後々出てきそうですが、私は単に情に弱い男だとつくづく感じており、「設計料は幾らでも良い」と言われて、“¥0 -”と書かないように気をつけます。


6月14日 「訃報」
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 私が独立してからずっと可愛がってくださっていた建築家が、今朝永眠されました。あまりのショックに涙が止まりません。最近はほぼ毎週ご自宅に招いてくださり、「田中さんに野菜を食べさせないと…」と言いながら、夜遅くまでワインと共に建築家精神論などを学ばせていただいておりました。

 今年になって中国西安の仕事が入ったのも彼のおかげで、ご老体であるにもかかわらず「一緒に行きましょう」と渡航してくださいました。帰国後にその疲労からか体調を崩し、先週の金曜日に招かれた際に「やっと全快した」と聞いて安堵しておりました。
 昨日も田中にスケッチをメールされ、電話でやり取りしたのですが今朝突然の訃報が届きました。「これが最後の仕事!」とおっしゃっていただけに残念でなりません。
 彼から教わった事、そして最後まで描き続けた建築家魂を決して忘れません。どうか天国から私の描くヘタクソな絵を笑って、生前と同様に温かく見守ってくだされば幸いです。

 「最後の仕事」は、野老正昭との作品として恥じぬよう、日々精進させていただきます。
 これまでの数え切れない感謝と共に、ご冥福をお祈りいたします。


6月21日 「悪戯」
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 先週は葬儀関連でバタバタしており、日曜日にご遺族に招かれ少し落ち着いてお話をしました。野老さんとのお別れ後、疲労と悲しみからか体調が優れず、梅雨の時期とも重なって、十字架を背負わされているかのように首・背中と両肩へ十字に激痛が走り、湿布が手放せない状況です。
 ………とはいえ仕事は待ってくれず、今日もあっという間にお昼になり、トボトボ近くのコンビニまで歩いて3日分のカップラーメン等を会計してもらうと「777円です」と店員から。
 「良い数字ですね!」と私が声を発すると、店員は赤面し笑顔になりました。「久しぶりに笑顔を見ました」と伝えると「今日は良い日になりますよ!」とリップサービス。少し明るい気持ちになりました。

 田中を笑わせて喜んでいるのは、天国の野老さんかもしれません。「笑った、笑った!」といたずらに喜ぶ顔が目に浮かびます。
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7月1日 「小笠原諸島」
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 以前から、小笠原が世界遺産になるだろうと思って渡航しておりましたが、ようやく登録される事が決まったというニュースに安堵し、ほんの少しだけ貢献できたことには満足しております。ただ、これが本当に良い事だったかは疑問です。
 島内の建設業はかなり忙しいようで、私の心は離れつつあります。


7月6日 「生き様」
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 先週のコラムのせいでははないと思いますが、急に小笠原諸島から連絡が来るようになり、バタバタしてしまいました。特に小笠原を嫌っている訳ではなく、これだけ世界的に有名になれば観光客も増え注目され、金儲けしたい会社で溢れるだろうと想定しておりまして、そうなるのであれば私は更に自らを必要としてくれる場所を探そうと思いました。このコラムを読んでいないにしてもこの数日間で官・民のお施主様から合わせて4件もの問い合わせ等をいただいてしまいました、失礼いたしました。


 「黒川紀章の死からの日本復興計画」や野老さんの死・小笠原諸島世界遺産など、私の頭の中で苦悩し思う事はかなりあるのですが、誰にも話せず感情をコントロールできずストレスを感じます。以前であれば、すべて野老さんに話していたことかと思うところに、彼の偉大さを感じ改めて感謝しております。

 7月30日(土)16時半~18時半に『建築家 野老正昭の生き方から学ぶもの』と題したセミナーを私の所属する建築家協会港地域会が催します。正式なご案内はまた後日しますが、建築家の鑑ともいえるこの生き様を是非ご来場いただき感じていただければ幸いです。


7月14日 「プレゼント」
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 昨日39歳となりました。昨晩は、野老さんの奥様にらにお祝いされ、ワインと中華料理をご馳走になりました。私に似合わぬ小さくて綺麗な黄色い薔薇の花束までいただきました。ありがとうございます。
 しかしながら、“39歳”に少し凹んでおります。38歳では感じなかったショックがあります。

 昨日は誕生日だというのに、朝からコンクリート打設に立会いでした。現場の温度計は37度を指し、汗と泥にまみれながら、「コンクリート化粧打放し仕上げ」に身を捧げました。生コン車を運転する若い女の子は笑顔で、「力仕事ではないので楽です」といい、精度の良いコンクリートを注いでくれました。建築現場が高齢化していく中で、微笑ましいひと時ではありましたが、建築業界の未来はどうなるのか心配にもなりました。

 コンクリートの打放しについては、安藤さんが第一人者かもしれませんが、私には私なりにこだわりがあります。安藤さんは型枠を厚くするなど「高級品」として打放しを表現しますが、私は安価で職人技としての打放しを表現します。建築家が偉そうに上からモノを言うのではなく、金をかけず綺麗にコンクリートを打つ方法を職人さんと一緒に考えます。
 この話はまた後日。


 コンクリートの打設が完了し、頭がボーっとして水を口にしていると、プロポーザルコンペで霞ヶ関にあるドデカイ建物の改修設計がとれたと電話がありました。丹下さんの代表作に続き、これまた責任の大きさに身の引き締まるプレゼントとなりました。


7月22日 「見世物」
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 私の卒業論文が、「人体見世物論」であったとは数度ここにも記しているかと思いますが、ミラノで最新の見世物小屋ができたとインターネットに掲載されておりました。マネキンの代わりを人間が務めており、ショーウィンドウの中に水着を着た男女がいるというものでした。世の中で機械化が進む中、「若者を雇用するためにマネキンを人間にした」とジョーク交じりのコメントでした。
 人間の見られたいという欲望と見たいという欲望に合致したのがこの見世物小屋だと思いますが、テレビという見世物小屋を再考する上でも面白いニュースでした。
 もう少し熱く語りたいのですが、忙しいので今週はこの辺で。


7月26日 「ブラックホール」
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 ツィッターを便利なモノと思う方は多いかもしれませんが、私はこんなに人間の自由を失うものはないと否定的に感じております。“つぶやく”というコンセプトであっても、独り言では済まされない情報伝達の速度であり、ひとつのつぶやきが一瞬にして全世界に行き渡ってしまうこともあります。メディアは人間の拡張であり、拡張すればするほど、ブラックホールのようなマイナス要素も現れます。
 サッカー選手の「若気の至り」や見世物政治屋までブラックホールにハマリ、このような拡張が原因で無差別殺人事件まで過去に起こっております。プライベートを露呈する行為はある程度までは楽しいのかもしれませんが、度を越えると失敗の許されないナーバスな生活を強いられるようになってしまいます。

 人類として自らを滅ぼす拡張を止めない限り、未来からの光を感じる事はできません。車というメディアは環境汚染と交通事故というブラックホールを作り、原発というメディアは…いうまでもありません。


8月2日 「切り替え」
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 先週末に、建築家野老さんを偲ぶ会が彼の代表作の教会礼拝堂で行われました。素晴らしい方々に囲まれていろいろなお話を聞かせていただき、天国の野老さんは喜んでくれたでしょうか。話し下手な私も、一言お話しをさせていただきました。その会の後、野老さんと何度かお邪魔した西安料理のお店で紹興酒を飲みましたが、この日を境に私も気持ちを切り替えねばならないと感じました。


 復興計画の着地点が分からず焦る気持ちが先行しておりますが、結局何ができるのだろうという不安があります。震災を目の当たりにして、建築業に関わる人間は誰もが「復興案を考えたい」と思ったでしょう。ただその多くが自分の無力に気付き、それを諦めました。一枚の格好の良いスケッチを描けば、自分はこういう提案をしたと自己満足に浸る事はできますが、それは建築家のマスターベーションを被災者に見せ付けるだけで、それを「嬉しいですか?」と問われれば、羞恥心だけが現れます。
 復興計画とは、第一に被災した都市やまちがどのような地形・都市計画であったかを分析することだと思います。そしてどうしてこれだけの被害を受けたのかを伝えられるレポートを作り、被災地に住みたいのであれば、どのような法的ルールやコミュニティルールが必要で、土木や建築のハード面のルールと個々やまちに必要なソフト面のルールを作る「道しるべ」を提出すべきだと思います。

 全て自分でデザインしたいと思うことが、一番やってはいけない事で、答えを提出するのではなく皆がこのレポートを草案として、話し合いの始まり(=人々の活力源)ができるようにしてする事が重要だと思います。美しい絵はその後でも良いと思います。
 私個人的にこの復興計画の終着点は…実は日本復興計画までやらねばならないと感じており、ボランティアの限度を超えてしまうことにジレンマを感じております。


 私の住む選挙区から出馬し今では首相の側近となっている人が、左手に落書きをしたり質問されて涙を流したり、完全に見世物になってしまいました。他の原発でも「やらせ知事」の出現、役人と電力会社の癒着、意味のない保安院等々……もう原発を信用しろというのが無理だと率直に感じます。その他、刷新とは名ばかりでバラマキ政治屋が大多数。
 票稼ぎの為ではなく、日本という大きな組織を運営する事を考えていただけないのでしょうか。


 このままの状況では日本は沈没します。若者は夢を失い生きる自信を失います。エネルギー問題に加え、領土問題・拉致問題・環境問題・基地問題など多くの事に真剣に向き合わずにいます。
 「触れたくない事は触れないでいいだろう」「触れなければ問題はこれ以上大きくならないだろう」「後世の人々が何とか解決してくれるだろう」というオゴリが日本人の短所です。

 困難に立ち向かえるリーダーが現れ、暗黒が予測される日本の将来像を切り替えてくれないかと切に願います。


8月13日 「夏休み」
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 弊社の夏期休暇は8月15日から17日までとなります。この間、あまり電話には出ないようにしますので不都合があってもお許しください。少々夏バテ気味で疲労感タップリなのですが、休ませてもらえない某案件が幾つかありまして、ユンケルを飲みながら頑張ろうと思います。

 ある方から表札を作ってくれと依頼され、久しぶりに土を触りました。このような時間を与えてくれた事に感謝申し上げます。


8月19日 「通勤」
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 電車に乗るのがあまり好きではないのと、終電を気にして仕事をしたくないので、私は徒歩通勤を選んでおります。毎日決まった時間に通るので、すれ違う人は話をした事もないのに顔なじみとなり、すれ違う場所によって「遅刻しているんじゃないか?」とか「髪切ったな」「元気ないな…」など感じるほどです。
 夜の帰宅ルートでは、頻繁に有名な建築家とすれ違うのですが、彼はずっと下を向いて歩いているので挨拶はしないようにしております。

 休日の出勤時に、坊主頭でガタイがよく黒い上下を着て汗だくの人とすれ違います。リハビリを兼ねた散歩のようでしたが、体が大きすぎで遠近感がオカシクなりそうです。膝が悪くて最近引退したスポーツ選手ですが、もう少し痩せてればタイトルも取れたのにと思いながら彼を見ていると、彼もすれ違うまで私と目を合わせたままでした。
 “番長”としては現役でした。


 遠回りをして帰宅をしようと歩いていると、交差点で「あのぅ~」という女性の声に立ち止まりました。見ると茶髪でまつげが長く、ピンクの服を着て白い靴下、ピンクのキャリーバッグを転がしており、立ち止まってしまった自分に後悔しながら顔だけを彼女の方に向けました。私の形相に驚いたのか、少し間をおいて「ねぇねぇ、ねぇ~」と手招きされました。
 私が更にニラミをきかすと「何よ~っ」と言われたので、「人を呼び止めて“ねぇねぇ”はないだろ!」と一言伝えて歩き出しました。背中に小声で文句を言われていたように感じましたが、振り返るとぶん殴りたくなるのでそのまま立ち去りました。

 こんな小娘に怒りを感じるなんて大人気ないとは思うのですが、(私の中では)”番長”のせいという事にしておきます。


8月24日 「抑止力」
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 暑さからか野良猫と会わなくなり、デスクから見えるアサガオのさらに向こうに目をやり、猫のいない風景を少し寂しく思う自分にあきれております。


 ある政治屋さんが「原発の存在は近隣諸国への抑止力になる」と言いました。1年以内に核兵器を作れる技術がある証らしいのですが、戦争になったら1年もせずに核を落とされるのではないかと思います。また、核爆弾を落とさなくても被爆させる事ができると今回の災害で証明してしまったはずです。国の防衛を考えるのであれば、原発は止めねばならず、かつ大至急せねばならない事は、日本全国の既設原発を隠すまたは強固に覆う事でしょう。


 野良猫はこの暑さに加え大気汚染に気付いて避難しているのか…たかが野良猫ですが、再会できたら人間を代表して謝ろうと思います。


8月30日 「再会」
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 弊社の入居しているビルが大規模改修を行う事になったようです。外に建つ「枠組み足場」が外ルーバー効果を果たしてくれまして、少し涼しくなった感があります。足場の隙間から野良猫が覗いているのを発見し、微笑ましくこんな野良猫+ドラ猫を見てニヤツイテいるオッサンも珍しいだろうと思います。
 今週が山場のプロジェクトがあり、バタバタしております。新たな父島の仕事も決まってしまい、復興計画も大詰めです。


9月8日 「脱力感」
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 入魂したプロジェクトが終わるとドッと疲れが出てきて、かなりの脱力感を持する事になります。久しぶりに小さな内装設計でそれを感じてしまいました。これから工事することになりますが、来年の年賀状はこの写真になるかもしれません。

 疲れて~疲れて~タラタラ歩いて帰宅する途中で、真っ赤な顔をした格闘家のピーター・アー○とすれ違いました。日本にいる事に驚きましたが、彼から勇気と感動をもらった若かりし頃を思い出し、疲れが吹っ飛んでしまいました。
 次の日には同じ場所で「777」というナンバーのベンツを目撃してニヤツイテしまいました。その次の日は同じ場所で、大きい声で芸人と話す和田○○子を目撃し、一気に脱力感が再発しました。

 今週が期限のプロジェクトもあるというのに、鞭を打って働いております。


9月14日 「3連続」
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 先週末にも納品をしたのですが、今週末も1案件の納品です。3週連続での納品となります。納品を焦る気持ちもあるのですが、今週末の打ち合わせ用スケッチを描かねばならず、コラムを書いている時間も惜しんで働いております。

 秋だというのに、真夏を感じる陽射しです。そろそろ夏バテしそうな疲労感で、社内で笑われております。先日、小笠原諸島案件の設計契約をしましたが、今月末には監理契約を2件行う事になってしまいました。世界遺産になった関係で、観光客でゴッタガエシテいると聞きます。ホテルシップ(宿がなくて船で寝泊りすること)だけは避けようと今から根回しをせねば…と頭の片隅にはあるのですが。


9月22日 「台風と共に」
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 大きな台風が過ぎ去りました。

 弊社は2階に位置するのですが、改修中の当ビルの足場養生シートは設置されたまま台風を迎え、雨風の影響を殆ど受けずに静かに仕事をしておりました。いつも通りに残業を終えて帰る時には台風は過ぎ、外に出ると緑色の落ち葉が散乱し、信号機は曲がり、きっと大変な台風だったのだろうと驚きました。
 酒を飲みながらテレビを観ると帰宅難民のニュースに更に驚かされました。23区内で仕事をする人であれば、環境は弊社と殆ど同じはずで、少し残業して頑張るか、早退すればこんなことにはならなかったのに、どうして311を思い出させるような事を繰り返すのか、不思議でなりませんでした。


 そんな台風一過の今朝、訃報が届きました。

 台風に連れ去られてしまったかのような訃報に、呆然としております。彼と最後にお会いしたのは今年の春頃でした。
 私の年賀葉書の絵を見て、「世の中つまらない建築ばかりになっちゃって…あなたが頑張ってオモシロイ建築を作って。幾ら難しい構造でも僕ならできるから。」と笑みを浮かべて話された顔が、頭から離れません。


9月27日 「秋の夜」
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 だいぶ涼しくなってきました。先週の悲しみから開放されぬまま、今週も訃報が届きました。なんとも言えぬ寂しさの中、図面を描き続けております。


10月5日 「三つ指」
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 今日は朝からコンクリート打設で、昼からはドシャ降りで震えながらの仕事でした。施工図を真っ赤になるまでチェックし、汗か雨か分からぬまま、桜田門近くの某案件の打ち合わせでした。
 打ち合わせが終わると外は暗く、電車に乗る前に昼飯をとっていなかったと腹が教えてくれました。空腹で会社へ戻ると玄関扉前で猫がお迎えしてくれました。三つ指をついて頭をペコリと下げましたが、足は開いてリラックスしておりました。あまりの愛想に食べてやろうかと駆け寄ると、元気を残して去っていきました。
 本当に猫は何かを感じて助けてくれる生き物です。


 ある方に頼まれて、先週つくばへ行ってきました。東北の津波被害が甚大なので、ひっそり影に隠れて、つくばの被害状況はほとんど知らされておりません。つくばで最も災害にあってはならない施設のはずが、数度の揺れで躯体以外はボロボロで、施設の人々も精神的に病んでいると聞きました。早く何とかしたいと思うのですが、地震は現在進行形なのでどの段階で改修をすれば良いのかは迷うところです。

 つくばでこの状態です。街ごと失った人々の苦痛は計り知れず、自分の不甲斐なさを痛切に感じております。


 猫の手に頼るのではなく、己の魂を奮い立たせようと、三島由紀夫の本に手を伸ばしました。


10月12日 「チェックバック待ち」
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 今日スタッフよりも早く出社して、ブラインドを開けましたら子猫がバルコニーで寝ておりました。お互いに驚いて目を合わせ、しばらく居座り、弊社の就業時間になると「しっかり働けよ」と言われ、猫は足場をつたって散歩に出かけました。


 東北の復興計画案が、ほぼできあがりました。最初に猫に読まれてしまいました。それでも「日本中に広めてくれるだろう」とアホな事を考えており、加えて「猫情報網は馬鹿にならない」と勝手に思っております。
 今日は黒川紀章の命日です。この復興計画は猫が天国へも届けてくれたはずです。雷が落ちてこない事を祈ります。


10月20日 「父島」
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 火曜日から小笠原へ出張しております。

 数名から“父島営業所を作れ”と依頼され、少しその気になってしまっております。私が六本木の事務所にいなくても、優秀なスタッフが手際よく仕事をしてくれるようにもなりました。心残りは復興計画を発表できていないことくらいでしょうか。父島でエネルギーをもらって、日曜日に一時帰宅しようと思います。


10月26日 「季節の変わり」
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 先週、世界遺産が決定して初めて父島へ出張しました。皆久しぶりでしたが、田中を覚えていてくれてありがとうございました。船中の人の多さに驚きましたが、父島の夜の街はガラガラでした。観光のオバサマは飲み屋には行かず、ダイビングもせず…山散歩は大混雑でした。

 父島から戻ると、社内がバタバタ状態で休む間もなくヘロヘロです。急に寒くなり、首に激痛が走りどうにもならない状況です。
 そんな中、私を気遣う野良猫たちが、現場でも帰路でも心配そうに近寄ってきてくれます。昨晩も夜遅くに呼び出されました。
 お土産は被災地の親戚に送りましたが、猫にも必要だったかもしれません。


11月4日 「バッタリ」
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 朝晩散歩して通勤するようになってから5年以上経っていると思いますが、その散歩道でいつも見かける路上生活者がおりました。女性でしたのである意味心配もしたりして、少し会わない期間があれば身体でも壊したかと考えたりもしていました。年々夏の暑さは増し、今年の夏から姿を見なくなりまして、いよいよ入院でもしたかと思っておりました。

 先々週の和泉現場で、コンクリート打設を終えて疲労感タップリでの帰路、明大前駅に向かう途中に歩道橋があるのですが、その階段を下りると立ち止まってこちらを見る人影が………私が目をやると、六本木にいた路上生活者の女性でした。向こうが先に気付いておりまして、お互い突然の再会に驚いてしまいました。
 「よくもまぁ、こんなところまで歩いてきたなぁ」と思うと同時に、何で彼女とこんなところで会ってしまうのか…また何故に二人で目を合わせてしまっているのか、かなり不思議な感覚に陥りました。


11月10日 「肘」
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 電車に乗るのが好きではないのですが、さいたま新都心駅へ向かう都内某駅開札の前で人々と逆流して歩いておりました。皆は都会へ仕事に来ていますが、私はその逆で、当然人の流れとして劣勢でした。除けながら開札前に辿り着こうとしたとき、50過ぎの男性とすれ違うのにぶつかりそうになったので、瞬時に除けたのですが、相手の肘が飛び出してきて私のアバラに衝撃を与えました。
 立ち止まって振り返り、呼び止めようとしましたが、人の流れと共に男性は姿を消し、立ち止まるとぶつかってくる人間も増えることに気付きました。誰かの生き方のようでした。


 帰りの電車に乗ると、カラーコンタクト・つけまつげ・刺青・レンズ無しの眼鏡をした若者を多く目にしました。一見自分を見せる為の装飾と思いがちですが、私は逆に自分を隠す為の装飾だと感じております。見るからに整形をした顔の表情無き若者もそうですし、ズボンだかスカートだかわからない、さらには男か女かもわからない若者。歩きながらゲームを楽しみ、仮想空間で恋愛して喜ぶ者も…。
 人類が滅亡する可能性があるとしたら、環境破壊に加えて、性別が曖昧になることだと思っております。人間とのコミュニケーションよりも、仮想空間での居心地良さに満足してしまいます。


 私は幼い頃からテレビゲームと無縁の生活をしていたので、携帯ゲームのようなものにも興味がなく、人ごみを逆流する人生ゲームを楽しんでおります。この楽しさを若者に伝えたいと思うのですが、それまでにはもう少し時間がかかりそうです。


11月25日 「ピエロ」
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 黒川紀章が亡くなった後に、彼を“ピエロ”と称していた建築家が、先週日曜日のニュース番組にコメンテーターとして出演しておりました。“巨匠をピエロと言ったオオバカヤロウ”が喜んでピエロになっておりました。
 私の卒業論文の中で、彼はもう終わった人間でしたが、最近は「プロデュースされるとまた生き返る」ようで、建築史も何も関係なく、単にメディアコントロールできるものが流行の人となる世の中なのかもしれないと感じました。

 疲れて酒を飲もうとした途端に現れたので、居酒屋の主に「頼むからチャンネルを替えてくれ」とお願いしました。


11月30日 「喪中葉書」
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 11月中旬になると毎年やってくる喪中葉書。
 今年の第一号は、宮古から届きました。何とも言い難い悲しさの中、大阪府警の現場でお世話になった現場所長が亡くなったという葉書も届きました。今年は震災以外でも私を可愛がってくれた方が多く亡くなりました。頼らず自立しろと言われているのかもしれませんが、39年生きてきた中で一番苦しい年だと思います。


11月30日 「親戚」
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 日曜日に奈良の白鹿さんが夫婦で遊びに来てくれまして、久しぶりの再会を嬉しく思いました。

 白鹿さんは先祖の探求がメインの目的だったようでしたが、その成果を聞いて楽しく話していると、白鹿さんが「田中さんと親戚かもしれない」と笑い話を始めました。数百年前に「田中惣左衛門」という人から長女をもらったということが、白鹿家の家計図に記されていたからだそうです(そんなこと普通家系図に書いていないとも思いました)。
 そしてすぐに私は、以前大阪の伯父から田中家の家系図をもらった事を思いだしました。なぜならば、私は家系図に記された“伯父がつきとめた最も古い先祖の名前”が同名だった気がしたからです(変な汗をかいておりました)。

 白鹿さんを東京駅まで送り別れた後、私は一目散に事務所の収納にしまわれた手作り家系図を開きました。見るとそこには、「田中惣右衛門」と記されておりました。右と左の差でのニアミスでしたが、こんな偶然あるのでしょうか。

 右と左は間違い易い漢字でもあり、それにも増して数百年前に親戚であったかもしれないとすれば…そのような人に可愛がってもらえているなんて不思議な感覚です。白鹿さんには「右と左を間違えていませんか?」と問うに留めましたが、これを調べてどちらかが逆だったら、かなり遠~い親戚になります。しかしながらこのようなつながりは、我々が気付かないだけで至るところにある話だと思います。
 何故この人と気が合うのだろう、この人とは何時も喧嘩になるのだろう、など何時も普通に感じている事が、実はアニミズムなのかもしれません。


12月5日 「酒断」
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 現在小笠原出張中です。
 下北沢の現場に張り付いていなければならないのに…と少し心配しながらの出張となっております。そんな行きの船中で、偶然にもアルコールを断つことになりまして、おそらく正月以来かと…詳しくはそのうち更新されるであろう父島出張日記にて。


 下北沢の案件とは、駅前ビルの7階全体の設計とその内2つのテナントの内装工事設計です。その1つの眼科(診療所)には“ある想い”がありまして、私が8年前に別件で採用されなかったデザインをあえて使わせていただいております。その理由もそのうち記しますが、内装工事でありながら久しぶりの力作です。おそらく元旦の葉書にてお披露目できるかと思いますが、あまりに難易度が高く、職人さんらは徹夜での作業を強いられております。


12月25日 「下北沢竣工」
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 下北沢駅前ビルの7階に「戸倉眼科」が移転しました。7階全体の取りまとめと、隣のアイシティ店舗も含め弊社で設計監理させていただきました。
 父島から戻ってから12月16日のオープンまでほぼつきっきりで監理しました。1ヶ月半という慣れない24時間休みなしの突貫工事でして、疲労度満タンのまま、年末までに図面UPの4案件と戦っております。


12月27日 「警備員」
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 毎月銀行へ通ってスタッフの給料振込みをしているのは私の仕事でして、だいたい決まった銀行支店から振込みをしております。しかしながら年に数回、給料振込みではない振込みも当然ありまして、私は慣れていないので毎回案内をしてくださる行員の方に、記載紙・記載方法などを聞いておりました。
 その方は定年前くらいの白髪男性で、私のような中途半端な人間にも何時も丁寧に教えてくださり、何時しか私は他の行員よりも彼を探して尋ねるようになっておりました。

 半年くらい前にその支店を訪れた際、彼は警備員の服を着て同じ場所に立っておられました。定年退職をされて再雇用先が、銀行と提携する警備会社だったのでしょうか。大きな声で「いらっしゃいませ、ありがとうございました」とは何時も通りなのですが、警備服を着ているという理由からか、彼には誰も話しかけない状況を私は切なく感じました。警備服を着た彼に相談する私を周囲は変だと思っているでしょう。

 でも私はそういう人間です。彼も警備員になりたての頃は、顔を赤くして何時もとおりに教えてくれましたが、今では以前のように嬉しそうに接してくださいます。実は、どの用紙に書くか知っていても、話しかけて聞いています。


12月30日 「苦しい一年」
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 今年を振り返ると、あまりにいろいろな事がありすぎました。ここに記せない苦しいことも沢山ありました。本日これを記すのは12月30日ですが、更新するスタッフは休暇に入っており、おそらく更新されるのが来年…ということはほとんどこれを見る人はいないと思い、メモとして残しておきます。


 今年は、自分の体調が悪くなって始まった年でした。しかしながら体調に関しては何故か改善されてきており、腰痛は右足首を治してもらってからほとんどなく、多少痛くなっても自分で背骨を触って治せるようになってしまいました。首に関してはまだ完治せず、もう少し時間がかかるかと思います。
 来年は、ジョギング程度の軽い運動を始めようかと明るく思えるようになりました。


 “311”が苦しい一年の象徴となりました。
 忙しさに怠けて被災地に住んでいる親戚と疎遠になっていましたが、久しぶりに会うと彼らの変わりように愕然としてしまいました。特に塩竈の伯父さん夫婦に対しては、独立してから一度遊びに行っていたのですが、私はその時もらった助言を無視して仕事人間になる事を選択しておりました。
 今、その伯父さんと話をすることはできません。もう一度話ができるようになったら、素直な気持ちを打ち明けたいと思います。治る確立はかなり低いと医者はいうのですが、私の伯父ならそんな低い確率でも不可能を可能にしてくれると毎日祈っております。


 黒川事務所OB有志数名と共に、復興計画を考えました。ボランティアという制限がある中での作業でしたので、あまり作業が進まずにチームとして良い結果が出せませんでした。かなり悔やんでおります。
 その発起人の方から、田中案だけでもまとめたらと言われ、大分遅れて完成したのですが、こんな案を国交省や県庁または現場に持参するのか…これを持参して何の意味があるのかという変な気持ちになりまして、棚の中にしまってあります。
 他の建築家と同じように思われたくないので、HP上で公開して興味ある人に拾ってもらうくらいでも良いのか…など来年に持ち越しとなってしまいました。


 お世話になった方も数名亡くなりました。
 大阪府警の現場所長であった田北さんは、当時の生意気な私を優しい眼差しでみてくれた方です。貧乏な私を知ってか、「旨いもん作ったから、食いにおいでよ」と言って、大酒付きでご馳走してくれたり、現場の中に畑まで作って皆に振舞ってくれました。私が独立するのを知って、私が現在使っている机と椅子等をプレゼントしてくれました。感謝の念が尽きません。
 一緒に西安へ行った野老さんの死は衝撃的すぎて、涙が止まりませんでした。当時のコラムにも記したかと思いますので、ここでは省略します。
 構造設計で協力していただいていた中山さんの死も、衝撃が大きかったです。あまり長く話をした事はなかったのですが、春にお会いして話をした印象があまりに強く残っておりまして、何故あのような事を言ってくれたのかと未だに不思議です。


 そんな暗いニュースばかりでしたが、小笠原諸島が世界遺産になった事は一瞬だけ嬉しいニュースでした。
 それに少しだけ貢献できたことは、ちょっとした自分への褒美かと思って喜んでいたのもつかの間、観光客で溢れ船の予約もできなくなり、仕事が滞るようになってしまいました。しかしながら、夜の店は閑散としていて島が混乱している状況です。
 私の常宿は、新たな客を泊めないようにしてしまいました。スタッフが連絡すると、「田中さんならいいです」と言ってくださり感謝しています。


 最後に仕事の話をしますと、小笠原諸島は世界遺産になったおかげもあって、興味本位の設計事務所が出没し、大分仕事が取りにくくなりました。しかしながら、仲良くなった方々からチョロチョロとお仕事を頂戴できるようになりました。
 小笠原諸島以外の仕事は…。
 今年は丹下さんの代表作から始まり、桜田門近郊・霞ヶ関の某ビル等、改修ではありますがなかなか関われない建物を数多く設計させていただきました。来年も国会議事堂と半蔵門との間にある建築の改修が決まっており、少しずつでも弊社での設計レベルが評価されるようになった事を嬉しく思います。
 また和泉の現場は、3月竣工予定ですが、コンクリート打設などに苦労しており遅延気味です。これは来年改善せねばなりません。
 今年最も力を入れたプロジェクトは、数あるビックプロジェクトを差し置いて、最も小さな戸倉眼科でした。あれだけ施主から強引に口説かれたら仕方ないよなぁ…と思っており、それにも増して、あれだけ好きなようにやらせてくださった事に感謝です。
 黒川紀章亡き後、私は建築に正面から向き合わずに、彫刻をしたり油絵を描いたり陶芸をしたりしておりました。そのキャリアも無駄にさせず、上手く建築に向き直させてくれたのが戸倉眼科院長戸倉先生でした。この場を借りて御礼申し上げます。



 さて、来年はどのような一年になるか…。
 幾つか待たせてしまっている仕事があり、それを年始からスタートしたいので、年末ギリギリまでバタバタ働く予定です。来年もまた、忙しい一年になるかと思います。

 私の人生の中で、これ以上に苦しい一年はないと思い、来年は少しでも楽しい年になるよう精進しようと思います。


株式会社田中俊行建築空間設計事務所

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