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株式会社田中俊行建築空間設計事務所は、用途・規模・構造を問わず、あらゆる建築作品を設計する事務所です。

コラム 2015年

1月6日 「謹賀新年」
コラムタイトル12-01

あけましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いいたします。

弊社は本日から仕事はじめです。


 年末年始は、休んでいるのか否か分からないくらい会社と自宅を行き来しておりまして、正月からは足首痛が再発し「杖」生活をしておりました。油絵を描いたり、愛犬の散歩ではかなり苦労したのですが、本日通勤前に杖を持つと…自然と足首痛が低減されていました。
 この足首一体どうなっているのでしょうか。


 油絵を描くときは愛犬「華子」に邪魔されないように苦労するのですが、集中していると床の上が絵具だらけになっております。床を自分のキャンバスと思っているようで掃除をする際には「何で私の絵は消されなきゃいけないのよ!」という目で私に訴えます。
 自宅にいても遊んであげないとこうなるのだなぁ…と反省して遊んでやるのですが、足が痛いとその意欲も半減してしまい…。


 さて、今年は良い年になる事と祈っております。その為にもスタッフが一丸となり情熱をもって力強い建築を創れる集団となれるよう日々精進していきます。


1月15日 「集団的自衛権」
コラムタイトル12-01

 いつかこれを記さねばと思っていて、多忙を理由に勉強もせずにいました。

 未だ良く理解できていないのですが、私はやはり反対派かなぁと思っています。他の国が攻められたらそれを守る為に戦うのは、単なる同盟軍にしか聞こえないのです。他国で日本の船が攻められた場合は、守ってあげるのが自衛隊…というのも???なのです。

 それは、パスポートに記されている文言がそれに代わると思っているからです。…とはいえ、「そんな事言ってたら海賊にやられてしまうよ!」というのが賛成派の意見でしょうけれども、それであればそんな貿易止めてしまえば良いと思うのです。
 ですから、私は何度もここに「東京を解体して新エネルギー特区にすべき」と記しています。目先の事ばかり考えていないで日本の将来を真剣に考える時は今でしょうと思う訳です。

 憲法解釈も変えてしまって、再び戦争をする国になるのは反対です。


 イスラム国というテロ集団と言われる団体が世界を騒然とさせておりますが、私はこの人達を「テロリストだから悪人」と片付けてしまうのは誤りだと思います。
 彼らには彼らの主張があり、それに耳も傾けず悪人とするのは世界平和の為にはならないと…。今、日本人が受けている情報・教育がすべて正しいのかという事も改めて考えねばならず、歴史と文化を押し付け、世界中を欧米のルールに則った資本主義または民主主義としてはならないと思うのです。
 フランスの新聞社が銃撃を受け被害を受けましたが、あんな侮辱的な絵を公にされたら腹立つだろうなぁと思う訳です。それを欧米が上から目線で「イスラムはこんなことをしてダメな宗教だ」と言わんばかりに圧力をかけるのはちょっと違うんじゃないの?と。

 以前も記しましたが、宗教とは自分たちが○で他は×というものですからそれが政治力を持つと戦争になるわけです。織田信長が日本を変えてくれたのですから、日本はそれを継承すべきと思います。他国の宗教上の争いに加担するのではなく、真の教育を受けられる環境を整えてあげるべきだと思います。

 政治家は「戦後~どうのこうの」と言いますが、戦後はむしろ欧米化された日本であり、重要視せねばならない文化・歴史はそれ以前のものであると思うわけです。


1月26日 「白い景色」
コラムタイトル12-01

 先週、八丈島へ出張してきました。
 朝4時に起きて華子と別れ、飛行機が飛ぶか否かも決まらぬ中、羽田空港に着くと「八丈で引き返すかもしれないけど、とりあえず飛びます」とのこと。飛行機が墜落して私が死んだら、自動的に華子も飢え死にするんだろうなぁ…と変な事を考えて搭乗しました。
 離陸すると予想通りの揺れがあり、外は真っ白で窓際の席の意味もなく、私は図面とニラメッコしておりました。飛んでいる時間は30分くらいでしょうか。直ぐには着陸せずにぐるっと回って雲の切れ間から着陸した感じでした。

 島の方が迎えにきてくれて現場へ直行し、山の上の現場は風も強く雨も降り景色は当然真っ白でした。現場の確認が終わり、下山すると次の飛行機の到着待ちでして、来るか来ないのか私には酒を飲むか飲まぬか…という意味もあっての待機時間でした。

 結局、飛行機はやってきまして、酒を飲まずに搭乗し、揺れながら羽田に到着しました。でも、小笠原への船よりはまったく揺れないので、私にとっては「この程度か」という感じでした。


1月26日 「保存問題委員会」
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 あまり良い話ではないのですが、建築家協会に「保存問題委員会」というのがありまして、特に私は委員でもなんでもないのですが、その活動の概略は「古き良き建築を建て替えさせないで保存して欲しいと所有者にお願いをする」という委員会です。

 昨年だったか…港区内のある有名なホテルが建て替えとなると聞いて、保存問題委員会や私の所属する港地域会が協力して保存を訴えていました。私はあまり興味が無かったのですが、それだけ素晴らしい建物だというならそうなのかなぁ~という程度の認識でした。
 数日後、建築家協会の会合で出た話のようですが、「その建物の建て替えの設計者は、建築家協会の重鎮であるからそのような運動をしてもらっては困る」という事になったらしく、それ以降この話は何もなかったことのようになりました。

 こんなことやっているから、いつまで経っても建築家協会は世間から???なのではないかと思うのです。その建物が如何に良い建物か、どうしてこの建物を残さねばならないか…あれだけ熱弁していたのに、設計者が建築家協会の重鎮であるとプレッシャーがかかり活動を止めるのです。

 だったら、「そんな委員会必要ないでしょ」と私は言いたい。


2月4日 「沈着」
コラムタイトル12-01

 コメントを控えておりましたが、邦人二人とパイロットが惨殺されたと報道があり、自分なりに考えを記しておきます。

 かなりショッキングな動画のようで、ご遺族の心中は耐えがたきものであると察します。しかしながら、現況からは、「仕方ない」としか言いようがないです。首相の演説も欧米のコメントも、どこか上から目線で相手をバカにしているように感じていたからです。
 勿論惨殺は人間がする事ではないと思ってはいますが、相手を理解しようとしないでいる世界の世論が、私には理解できないのです。

 イスラム国からすると「あれ、日本は中立だと思っていたのに敵なのか!」と感じていたでしょう。特に日本は「平和の見本となる国」でなければならず、自分たちが戦争をしないだけではなく、「戦争をする事にNo!」と先頭に立って発言しなければならないと思う訳です。
 そのために、フリージャーナリストが頑張って現地に乗り込んで取材してくれていたと認識しております。いわば戦時には中立国とならねばならないと思うわけです。

 それなのに、どの国も中立国にならず「イスラム国は悪」と世界中が騒いでしまっては、彼らが逃げ場を失い冷静さを失うことで誤った主張をするようになり、一人残らず殺し合うまで世界中が戦争を続けることになってしまいます。殺し合うことだけが戦ではないと思いますし、この状況下では永遠に何世代にも渡って続いてしまうのではと懸念しております。


 我々がまず「イスラム国」の信じる宗教や考え方の相違点を理解し、イスラム国にその相違を理解するように努めるべきだと思います。
 ですから、まずは子供の教育が重要だと思うわけです。そのためにも伝達者であったフリージャーナリストの死は悔やまれます。


 世界が平和になる事を祈ります。


2月9日 「Hang in there!」
コラムタイトル12-01

 2月に入り、いよいよ多忙を極めるようになりました。

 忙しくなってきますとスタッフ皆が不安定となり、どうしても意匠を考える時間が限られてきます。
 この時期、私は通勤時や風呂に入っても酒を飲んでも「あの意匠をどうするか…」と悩むようになり、夢の中でも仕事をするようになり、頭を休める時間がなくなるのが自身の欠点です。この負のスパイラルを改善しようと絵を描いたり、華子と遊んだりするのですが、なかなか簡単にはいかず…。

 私が黒川紀章の弟子時代、忙しくとも意匠を考えない輩は「意匠放棄しているのと同じだ」と強く教育されました。納品のギリギリまで時間がなくとも意匠を考え、それを図面にまとめる行為こそが建築への情熱であり、その情熱がなければ建築を志す資格がないという教えです。
 黒川紀章から最も影響を受けた教えは、デザインではなくこの情熱なのです。

 彼の下を離れ独立し、ここまでやってこれたのもこの教えを守り(その都度後悔は必ずあるのですが)、私なりに努めてきたからだと思っています。スタッフも増え、私は皆にこの情熱を継承して欲しいと思っています。
 とにかく忙しく厳しい状況下ではありますが、スタッフ一丸となり2月を乗り切ろうと思います。


2月10日 「Gotta go…」
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 寒さと私の帰宅時間が遅い事もあり、愛犬華子は寝不足の日々が続いております(昼間は寝ているのですが…)。
 特に最近の寒さから私が起きて支度をしていても布団に潜り、朝ごはんの準備をしてその匂いを感じてやっとこ起きてきます。このグズリに付き合って出社時間がギリギリになり、かつての1時間前出社ができずにおりました。

 昨晩、「明日は忙しいから早く起きて会社に行こうなぁ」と言って就寝しましたところ、今朝は目覚ましの鳴る30分前にごそっと布団から出てきて、私の枕元でお座りをしました。あまりに驚いて私も飛び起き、朝ごはんを作って(といってもお湯でふかすだけ)食べさせ、その間に私は身支度を整えておりました。

 私は久しぶりに早起きして気分が良く、「さぁ、会社行こうか!」とハウスの中にいる華子に声をかけると、顔だけはこっちを向いているのですが、目も開けられず横になっておりました。かわいそうだと思い横になったまま服を着せ、ハーネスを付け、「さぁ、そろそろ楽しみのはずの散歩だから起きるか…」と思っても前足しか動かず…私は
途中目が覚めるまで華子を鞄に入れて、会社に向かいました。
 「行かなくちゃ」という気持ちはあるけど、目も開かず前足しか動かない、一生懸命に起きようとする姿を愛おしく感じました。

 散歩が足りなかったか…会社に着くとスタッフが出社するまで、ず―――っと走り回っていました。

「そろそろ、人間の言葉を喋ってもいいんじゃない?」と馬鹿飼い主は話しかけております。


2月24日 「Go for it!」
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 弊社スタッフは新卒雇いが現在おらず、中途採用=他の事務所で勤務してから即戦力として弊社にきてもらっています。30歳を過ぎると人一倍働くのは当然なのですが、同時に脳ミソが守りに入る人間もおります。建築の世界は工法でも材料でも法規でも日々更新されていく訳でして、これを受け入れる=個々のスキルアップがないと建築界の浦島太郎になってしまいます。

 意匠に関しても同様です。
 過去に勤めてきた事務所のやり方が保守的であったにせよ、私の事務所にきたのだから精一杯自分の殻を割って頑張りなさい!といつも叱咤激励しております。流行の建築がどうも淡々とした表情のないモノとなってきているので、弊社スタッフまでも洗脳されようとしております。
 誰から評価されなくとも、我々は建築に愛情を注ぎ、納品間近であろうがヘトヘトになっても意匠を諦めず、施工会社ともある意味戦い続け…竣工の際には創り上げた作品を嫁に出す気持ちになり、皆で酒を飲みながら涙を流せるくらいになれればと思っております。


 最近、愛犬華子を土日出社と残業に付き合わせており、先日同様に今朝も餌を食べた後に私が「会社行こう!」と言っても寝たままでして…かわいそうだとは思うのですが、無理やり起こしてリードを引っ張ってきました。
 会社に着いてもずっと寝ており、飼い主として問題有だなぁとは認識しております。

 頑張ってくれよと思っても、この寝顔を見ると…。


3月4日 「Look on the bright side.」
コラムタイトル12-01

 私は大学の研究室(ミニ設計事務所のような研究室)と大学時代のアルバイト事務所と黒川事務所でしか働いた事がないので、他の事務所の仕事スタンスを知らないのですが、弊社は狭小住宅から官庁建築まで、全ての規模・用途を設計できる事務所です。
 安価なものから高価なものまで設計できますし、新築だけではなく改修設計もできなければならないと力を注いでおります。

 この「何でも設計できる設計事務所」に入社しますと、たいていの人は戸惑うと思います。
 新築意匠ばかりやってきた者は改修設計の経験がなく、民間の仕事しか経験のない者は官庁案件で赤チェックや積算対応をします。手が空いていれば設備図でさえも作図したりします。
 3月には一気に約20件分の納品や検査がやってきて、毎晩終電の午前様になるのは勿論ですが、眠気を吹き飛ばし集中して検査を受検せねばとんでもない事になります。


 この設計事務所をもう少し規模拡張するために、今のスタッフに私が10年以上かけてやってきた事を理解してもらいたいと思っております。人数が増えるとそれぞれに私が教育することは不可能となりますので、現スタッフが核となって新たなスタッフを教育して欲しいと願います。


 私が何を目論んでいるのか…といいますと、早くこの設計事務所を確立し安定させ、海外進出を近い目標にしております。

 具体的には45歳くらいまでには…。

 語学が堪能なスタッフも徐々に増やし、私も学び、日本での窮屈な仕事はベースにあっても、それから解放される建築を創りたいと思っています。

 加えて建築だけではなく、油絵をはじめとする制作活動もしたいと考えております。そのためには、今描いている絵を何としても5月の展覧会に出展させねばと考えております。


 こんなことを記して、有言実行できないとスタッフから袋叩きにされそうですが…。
 愛犬華子との住処も、そろそろ真面目に考えようと思っています。


3月11日 「Are you copying me?」
コラムタイトル12-01

 テレビは居酒屋のカウンターで観る程度なのですが、日曜日の朝の情報番組だけは自宅で観る事があります。何故なら、この番組のコメンテーターの考えがかなり私の考えに近く、冷静に世の中を分析していると思うのです。
 コメント内容も黒川紀章の「共生の思想」を読んだかのようで、使う語彙も含め、聞いていてリラックスできます。ただ最近、若返りを図ろうとして髪の毛の色が黒くない人が出ているのが気になるのですが…。

 福島原発を含めた東北の復興に関しても、ほぼほぼ私と近い考えのコメントを発していますし、私からすれば「ここから日本復興を想起しろ」と思うのですが、時機にそうなるのではないかと期待しております。

 多種多様な国際問題も然り…。


 建築雑誌を見ても、私が10年以上前に創った作品に似たものを目にします。ただ私が何でこれを考えたか、その主旨を理解しないで建ててしまっていて、少し残念に思うところもあり(エラソウニスミマセン)。


 地球上の社会情勢、それをまとめる政治家等、それを伝える情報、彼らがモノを発する前に時代の先読みを常にしております…大学の恩師のおかげもありまして。
 そのトレーニング結果をここに記しておりますが、それ以外にはあまり利用できないのが残念なところではあります。

 どの話かは記しませんが、意外とこのコラム読んで自分の意見にしてないか?と酒を飲みながらニヤツイテマス。でもそれはそれで良いと思える歳になりました。
 建築界でもそう思えるようになっただけ、私の進むべき方向がクリアになってきました。


 それにしてもテレビ界はクダラナスギテ、大丈夫かよって感じます。朝から晩まで日曜のこの番組が、司会者やコメンテーターをとっかえひっかえでやっていたら、かなり視聴率が取れるのではないかと思います。

 そんな勇気はテレビ局にはないか…。


3月16日 「No kidding.」
コラムタイトル12-01

 東京大空襲から70年、東北の震災から4年が経過しました。
 この二つの事柄で思い出すのが、亡くなった野老(ところ)さんです。ちょうど東北の震災の年に亡くなったのですが、それまでの数年は建築家協会を通じてだけではなく、プライベートでもご自宅に呼ばれお酒をいただきながらたくさんお話を聞かせてもらいました。
 震災直後の5月に一緒に海外出張し、大きな夢を語り合った大先輩です。


たまに話される脱線話がかなり面白く、私が歴史を勉強したいと思ったのも、彼の話を聞いたからでした。もちろん奥様からは数冊本をいただいたりもしているのですが…。

 その脱線話の一つに、「東京大空襲の策士は誰か?」という問いがありまして、私は首をかしげるしかありませんでした。
 彼はニヤリとしながら「実はフランク・ロイド・ライトなんです」と言いました。建築界の三大巨匠のひとりがそんな事を…と思ったのも束の間、「焼夷弾をアメリカ軍に使わせたのです」と。
 続けて「当時の日本の家屋はほとんどが木造で密集したところにありました、そして日本人の生活や日本の天候の特徴なども当然知っていましたね、建築家だから当然ですね?焼夷弾をばらまくだけで都市が大火災になり、多くの人が亡くなるという事を最も熟知していたのはライトだったのです。」と。
 戦前から日本で仕事をしていたアメリカ人の著名建築家であれば、アメリカ軍からそのような相談があってもおかしくないなぁ…と勝手に納得してしまいました。


 野老さんは、残念なことに亡くなってしまったので、この話が冗談だったのか等、聞く事も調べることもできませんが…多忙極める3月半ば、こんな事を思い出しました。

 原子力爆弾や各都市での大空襲、これだけ無差別に殺人をしたアメリカは、戦争の勝者だからお咎めなしなのです。
 歴史家は勝者アメリカが良、敗者日本は悪と記すでしょう。現在の日本史に記されている事項もそうだと感じております。


※インターネットで調べましたら、ライトの弟子のアントニン・レーモンドが、東京大空襲の実験に関わったと記されておりました。野老さんの脱線話もあながち間違っていない事が分かりました。
 しかしながら、ライトがどのように関わったかは不明です。


3月24日 「Spring is just around the corner.」
コラムタイトル12-01

 世の中「桜の開花」を喜んでおりますが、弊社では桜を楽しんでいる場合ではありません。今年度はかなり設計の仕事が舞い込んできましたので、今週を何とか乗り越えないといけません。夜遅くに会社で油絵を描いていても白い目でみられるようになりました。

 今週末は桜を楽しめると良いのですが…弊社の春はもうまもなく!


 会社の道路挟んだ斜向かいに木造住宅があります。ここにはおばあさんとその息子さんが住んでおり、ここに引っ越してきて早々にゴミだしで私は怒られました。その後は挨拶を交わすなど、立ち話もするようになりました。

 つい先日の夕方、下の車庫で荷物を運搬しておりましたら、この家にお坊さんがいらっしゃって「あら、何かあったか…」と。そして次の日になりましたら葬祭業者が出入りするようになりました。まさかとは思ったのですが、遺影を運ぶ際に…おばあさんが亡くなったと知りました。

 つい先日も挨拶したのに…立ち話程度の関係でしたのでお線香もあげれず…。


 実はそのおばあさんの家の庭には、大きな桜の木がありまして、弊社の打合せコーナーからの風景の一部となり、毎年春の訪れを感じさせてくれます。そんな桜が花を咲かせ始めまして、「この桜はおばあさんが亡くなった事を知っているのかなぁ」と毎年綺麗に咲いてくれるこの花を眺め、少し胸が痛くなりました。


4月3日 「Gathering around cherry blossoms」
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 ようやく新年度となりました。

 昨月末はかなりのhard workでした。スタッフも疲労感たっぷりで、今週末に上野で花見でもしようという話になったのですが、どうやら雨のようです。更に、本日の強風ですっかり葉桜となりまして、花見という名の慰労会となりそうです。

 来年はもう少しゆっくり咲いてくれ!とスタッフを代表して桜にお願いします。


 春の甲子園で優勝した敦賀気比高校は、昨年夏に母校が完敗した相手校です。昨年から良いチームだと思っていたのですが、今春に優勝して更に良いチームになったのだろうなぁ…と感心しております。
 わが母校も夏にリベンジしてもらいたいと祈ります。


 愛犬華子は、寝不足続きでまた餌を食べなくなりました。「ゴメンね」と思いながら、私はタイムリミットがちょうど一か月となった油絵とニラメッコしております。


4月7日 「What for」
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 時々、私は「何で建築を志したのだろう?」と自問自答しているのですが、いつも「単に建築が好きだから」と決めつけておりました。もともと彫刻家になりたかったという夢が断たれたのは、大学進学の際に親から「そんな職業では飯が食えない」と言われたからで、私は今でも「いつか彫刻家と建築家の2足のわらじを…」と夢見ております。

 脱線しましたが、先日車のラジオから、私のような職業の人は「死をごまかすために作品を創る」といわれ、目からうろこでした。

 確かに…恥ずかしいことかもしれませんが、私はかなり死を恐れており、他人が死んでもかなり恐怖感を覚えます。突然無になる恐怖は計り知れず、ただ死を後回しにして、作品を創り残すことで自らの死を曖昧にしようと考えています。

 最近は、飢え死にしないように愛犬華子よりは長生きしたいとか、私が死んだときの為に事務所をどうすべきか等考えておりますが、考えれば考えるほど苦しくなってきます。


 さて、花見という気晴らしが終わり、私は油絵に没頭せねばなりません。この絵はこの絵で、私の人生の中で重要な意味をもつ絵となります。是非、黒川紀章の遺作である美術館に出展できるよう努めます。
 華子の寝不足もあと3週間、辛抱してよと…。


4月14日 「Nightmare」
コラムタイトル12-01

 春になりましたが寒暖の差が激しく、愛犬華子は出勤ギリギリまで夢の中という日々を過ごしております。加えて寝ぼけた状態で朝食はとらず、出社してから朝ごはんを食べるようになってしまいました。
 連休明けには食生活を正そうと思います。

 私はほとんど毎日、夢の中でも仕事をしております。ペンやスケッチブックがなくなり困惑する夢や現場でのトラブルの夢、スタッフにあれやこれをやれと指示をしたり、プロジェクトが訳わかんなかったり…様々な夢をみます。 そして昼間、「スタッフに言ったはず」または「夢の中のはずが何で知っているの?」と昼夜がゴチャゴチャになる事もあり、そろそろ自身をcleanupしないとダメだと思うようになりました。

 そんな私の夢仕事の隙間に、野球をしている夢をみる事があります。でもそれはかつてのように球場で活躍する夢ではなく、毎回共通で「思うように走れなかったり、投げられなかったり、捕球できなかったり、打てなかったり…」という情けない夢です。
 チームメイトからは白い眼で見られ、グランドを去るという夢なのです。

 どうしてこんな夢ばかりみてしまうのかと悩むのですが、私はある意味当時のチームメイトに背を向け裏切ったという想いがあるからなのかと…。
 そのせいもあってか、今私は弊社スタッフ及び彼らの家族をチームメイトまたはそれ以上の家族だと思って接しています。彼らと共に、現実の世界で新たな良い夢がみれるよう、純粋な建築を求め続けたいと思っております。


 華子は昼間吠えないのですが、夢の中で「ワン」とまではいかないくらいの小さな声で「キャン、クン」または「ニャン」と言います。
 楽しい夢をみていてくれてれば良いのですが…私に影響されていない事を祈ります。


4月24日 「Clean up」
コラムタイトル12-01

 先週金曜日の夜から青森へ出張してきました。
 私の愛車ではなく、同乗者のスカイラインでした。私は途中の吾妻から目的地まで運転を担当し、ノンストップでスカイラインの加速を楽しませていただきました。
 福島から先は桜が開花しており、明け方の岩手山は美しく、いびきを聞きながらではありましたが景色を楽しみながらの運転でした。

 到着して仮眠をとり、岩の上に建つお店でお施主様と共にお酒と海鮮丼を堪能しました。
 そして、現地に戻り調査をし、建て替えたいというお施主様の意見に逆らい減築・改修することを勧めました。屋根裏も確認し、震災にも耐えられた構造フレームですからかなり強靭であると判断しました…などなど仕事の話はおいといて…。


 夕方には温泉へ連れて行ってもらい、身も心もリフレッシュ。八戸は高層ビルもなく、空が広く感じました。

 そのあとは屋台村へと移動、はしご酒。今宵は痛風を無視してタラフク男山をいただく。飲み足りないという事で、男山を買ってお施主様の家になだれ込む。
 宴会は続き、脱落者は寝る。弘前公園の桜が有名な理由は、リンゴを剪定する技術を使って桜を育てているからだと聞き、話は盛り上がる。
 何時に床に就いたかは記さず。


 朝は6時にタタキオコサレ、朝市へ。
 ‘美しすぎる市議’ から名刺をもらい、こんな小娘を取り巻く輩がいるのかと…まぁいいや。

 お施主様から蕎麦と鳥の骨付きもも肉揚げを手渡され、胃から悲鳴があがる。

 その後、長い散歩をした後に少し仕事をして、昼飯だと市場へ移動。
 市場にバーベキューができる場所があり、購入したての新鮮な魚介類を網に乗せる。カキ、ホヤ、ホタテ、カレイ、ホッケ…私は朝飯が胃に残っており、途中リタイヤ。
 その後土産を購入して14時頃に「また来ます」とあいさつをして帰路。


 前半は私が担当。ご存じのとおりの速度で控えめな運転。
 宮城に入って運転を交代し、佐野インターでラーメンを食す。その後は終電を気にする輩がおり、何故か私に運転交代。
 マニュアル車ではないので面白みは半分であったが、快適な速度で無事時間通りに到着。


 楽しい出張でしたが、その間華子は…というと、皆様の予想通りに一緒に出張してきました。お施主様の家でも皆に愛想を振りまき、ここの家の犬ではないかと思えるほど馴染んでおりました。
 ただ、帰ってから2日間はぐったりと疲労感たっぷりでしたが………。


5月1日 「I finished my painting.」
コラムタイトル12-01

 ギリギリとなりましたが、油絵を描き終えました。約2年半かかってしまいましたが、まだ色の使い方が分かっておらず、次作はもう少し上手く描こうと反省しております。
 しかしながら、80号という大きな絵にはかなり苦労しました。1つの色が違うと描きなおすと、あの色もこの色もとなり、何度も何度も描き直すことになり、乾かないうちに重ね塗りしたい部位も一気に描くには時間がかかり、ある意味時間との闘いでもありました。
 年度末の本業疲労困憊中は体力の限界を感じて筆を下す事も多々あり、目の疲れや酒ではなく、疲労からくる手の震え…等々、前作との大きさの違いから予想外の事だらけでした。

 4日に師の代表作である国立新美術館へ搬入し、入選すれば、13日~25日までの期間「第111回太平洋展」に出展します。



 新年度になり、新たな仕事が舞い込んできました。その中でも、関西や青森や福島の仕事ができるようになり、少し嬉しく思っております。これを皮切りに関西でも東北でも仕事ができるようになればと思っております。
 徐々にではありますが、目標に向かっております。

 今月は東北や関西に出張し、タラフク旨い酒をいただきたいと思います。


5月8日 「Running my own business」
コラムタイトル12-01

 来週末で会社を設立して12年となります。あっという間…とは言えないですが、「いろいろと苦労してようやくここまでの会社にできたなぁ」と様々な出来事を思い出しております。

 4月末でスタッフが退社し独立することとなり、弊社で初めての卒業式(送別会)を行いました。かなり辛口な激励を発しましたが、どこまで頑張れるか挑戦して欲しいと願います。


 ある建築雑誌に黒川紀章の事務所の経営について述べられておりました。すべてが本当だとは思っていないのですが、私も頑張らないといけないと改めて思いました。
 もう少しコメントしようと思っていたのですが、まだ私がコメントできる身分ではないと思い直しました。


 昨年からか…弊社の卒業生含め、独立したいという若者と数人話をしました。自分で会社を立ち上げる前の孤独な下準備はかなり厳しく難しく、建築の神様が認めてくれない限り、人を雇って会社を大きく!という夢は儚く終わるものだと思っています。
 なにしろ建築から逃げられない覚悟がないと務まらず、スタッフが増えようが一生孤独との戦いとなるわけです。金持ちになりたいという夢が先行する者にはまず無理な仕事で、どのような建築を創りたいのか、どのような建築家になりたいのか、その為には今の自分に何が足りなくて、それを得るにはどのような努力等が必要なのかと考えます。
 加えて、自分の創りたい建築が直ぐに作れると思ったら(親が資産家でなければ)大間違いで、(流行の建築を追従しないのであれば)それを創る為にはかなりの日々を苦しみ耐え抜かねばなりません。

 この話も長くなりますので、この辺で…独立したい若人で私と話をしたければ、連絡ください。


 ただ、私もまだまだだと自覚しております。
 足りない事を露呈するほどアホではないので記しませんが、会社を設立して12年、周囲は「良くやっている」というかもしれませんが、私の目指すところからはほど遠い現実に、「あと何年働けるのか」と酒を飲みながら愛犬華子に愚痴を聞いてもらっています。


5月13日 「Amazing」
コラムタイトル12-01

 先週吉報が届きました。奇跡的に、私の油絵が入選したと…。

 本日より、25日まで亡き師の‘遺作’で展示される事になりました。第111回太平洋展です。

 もしご都合宜しければ立寄ってみてください。私よりも他の方の力作を楽しんでください。


5月22日 「Now’s our chance」
コラムタイトル12-01

 日曜の明け方から関西を回ってきた。

 土曜日の夜に酒を飲んでマスターにタコの土産を約束して帰宅し、華子に「関西に行くから5時に起こしてな」と言って寝たのですが、華子は4時半から私を起こそうと足の上に乗ったり、私の顔に鼻をくっつけてきたりと努力してくれた。
 普段は私が起こす係なのですが…。
 

 私の荷物整理が遅延し、結局5時半に出発した。
 浜名湖までは休まずに運転。浜名湖SAにて助手席で寝ている華子を起こし、少し長い休憩をとった。景色も良く、空気も美味しく、久々に華子とのんびりした時を過ごす。朝食を頬張り、再びハンドルを握り、いざ京都へ。
 昼前には到着し、京都での初仕事に向け、現地調査をすること数時間、華子は熱い砂利の上を歩きたくないと主張し、抱っこをしながらシャッターを切る。近くに大きな鳥居の先にマンションが建ったと話題の現場も確認し、こう言われないような建物を建てようと決意し京都御所を散策。お土産の御所煎餅を購入して、奈良の白鹿さんに確認の電話。

 時間があるのでフラフラと古民家を眺め散歩をしながら奈良へ向かう。目指すは秋篠寺、昼飯を頬張りながらの運転ではあったが、天気もよく、爽快に走る。
 秋篠寺到着は15時。華子を連れて行こうとしたら「犬は入るな」と張り紙有。仕方なく華子は車で留守番。独りで伎芸天さんに挨拶したが炎は揺れず。
 あらぁ~怒らせてしまったかと反省し、再度頭を垂れるとゆらゆらと炎は揺れて大きくなるも長続きはせず、何か私の心に悪しきものがあるのだろうと反省。
 やはり犬を連れて入ろうとしたのもいけなかったか…。

 16時に白鹿邸に到着してしまい、早く着いたとお詫びを伝えながら再会。華子は白鹿さんの庭を駆け回る。奥様がいないので大奥様と三人で食事、飲み足りないだろうと華子を留守番させ近所の焼き鳥屋へ移動。
 焼き鳥屋から戻ると奥様が帰宅しており、3次会スタート…そして就寝。


 次の日は華子を留守番させて明石へ。関西の電車賃は高額だ。
 昼食は海鮮丼であったがいまいち。明石で仕事をした後の夕方に明石ダコを求めアーケードのある商店街へ。商店街では、結局高額な買い物となる。

 白鹿家に戻ると華子がいない。隣の家で預かってもらっているという…というか、隣の方が少し預かりたいと申し出てくれたらしい。何とも贅沢な犬だ。
 宴の途中でさすがに華子を受け取りにいかないとまずいだろうという話になり、奥様が行くと華子は高級ソファで寝ており、隣人は涙を流して別れを惜しんだそうだ。

 白鹿家での宴は楽しかった。高額な買い物でも盛り上がり、白鹿さんの購入したお猪口などでも笑い有。9月にオーストラリアへ行こうという話に。
 タケノコの天ぷらは絶品であった。その他も旨いモノだらけで酒をいただき、久しぶりの家庭料理を堪能して就寝。


 火曜日はお別れの日、華子と共にお礼を言って、白鹿家を発つ。
 曇り空なので華子を連れて仕事場である尼崎へ。尼崎のコインパーキングで華子は留守番、窓を少し開けて。

 仕事が終わって建物から出るとカンカン照り、これはまずいと駐車場へ走り華子の生息確認。安堵して水を飲ませて帰路。快適な走行で、浜名湖で休憩し、勤務時間内に会社に戻る。


 強行スケジュールではありましたが、関西での仕事を難なくできる事を嬉しく思います。白鹿家には感謝です。
 弊社スタッフも新たに増員されることとなりましたが、小さな設計事務所でありながら関西でも東北でも仕事ができる環境であることが、弊社の利点であるのかもしれません。このチャンスを逃さぬよう、スタッフ一丸となりまして、丁寧かつ迅速な設計監理業務を遂行したいと思います。


5月29日 「When I was…」
コラムタイトル12-01

 GW中に華子を連れて私が生まれ育った松原団地へ行ってきました。
 前回行った時は、かつての私の家は仮囲いに囲まれて隙間から写真を撮るなどしたのですが、今回行くと広場のような公園になっておりました…松原団地記念公園と。

 綺麗な公園でしたが、これで私の生家は私の脳裏と数枚の写真にしか残っていないという事になり、かなり寂しい気持ちになりました。私の記憶力も日に日に衰えてきておりますので、前回行った時に思い出した幼稚園、学校、友達、野球、メンコ、コマ、凧揚げ、蝉、カエル、木登り、家族、恋愛、失恋等の記憶が時機に思い出せなくなるのだろうと思います。

 私は、松原団地に住んでいた頃が一番幸せだったと今でも思っています。今、まちづくりという活動が全国各地で行われていると思いますが、あの頃に戻れば良いだけだと思っています。デザイン的には単調な建物ですが、公園や露地、商店街はとても活気に溢れていました。
 公園の樹木に段ボールを敷き並べ紐で結び基地を作ったり、どぶ川でザリガニやカエルを捕まえて学校の先生を驚かせて廊下に立たされたり、壁当ての野球練習をしていて窓ガラスを割って怒られたり、ゴミ収集所でプロレスごっこをしたり…様々なことが幸福でした。

 父親の帰宅時間を狙って、家の前で素振りをして教えてもらったり、学校に行く前にマラソン練習をしたり、初恋の子がある日突然転校してしまったり、公衆電話で好きな子に電話ができずに汗だくで電話ボックスを占拠したり…恥ずかしい思い出もありますが、本当に幸せな時代でした。


 私に不幸がやってきたのは、偶然にもこの松原団地から駅の反対側のマンションに引っ越した時からでした。
 親しいはずの友人から裏切られたり、父親の事業が上手くいかなくなったり、家族が崩壊する出来事が起きたり…10代後半からつい数年前までは、映画にもできるくらい、苦労の連続でした。

 でも、その記憶と苦労があったので、私は建築に没頭し、苦しい日々を乗り越えられました。会社を設立してここまでやってこれているのも父親という反面教師がいたからです。
 今現在もストレスのある仕事にはまったりもしますが、若かりし頃の苦労に比べたら大した事はありません。


 最近は、犬を飼ったり油絵を描くなど、生活に少しゆとりができました。そして過去を振り返る余裕もできました。ストレスと孤独との戦いは相変わらずですが、そろそろ自分の生きてきた証を残そうと思うようになり、半セルフビルドで自邸を建てようかと思うようになりました。時間がかかるかもしれませんが、私がお世話になった方々や友人、スタッフが気軽に遊びにこれる家にしようと思います。

 最後に、過去を振り返り、若気の至りとはいえ数多くの人々に悪い事をしたなぁ…と反省しております。ひとり一人謝りに行けないのが残念ですが、この場を借りてお詫び申し上げます。


6月12日 「Don't judge a book by its cover.」
コラムタイトル12-01

 先週、いわきに行ってきました。
 スタッフと二人で行きましたが、2時間半くらいでしたか…あまり遠くないのねと思いながら1時間100円のパーキングに車を停め、現地調査をしていたのですが、人が少ないなぁという印象でした。
 途中の高速道路もうねっていましたし、まだ震災後の応急処置程度なのかなぁとも思いながら、震災からの復興が程遠い現実と原発近くはやはり人が少なくなるのかとも思いました。

 実は事前にいろんなとアドバイスをいただいておりました。そのアドバイスもあって集中して調査を行い、あっという間に調査が終了しました。そのアドバイスとは………まぁ~このコラムの題名ってことかと、今は思っています。


 先日、72歳の方と二人でお酒を飲みました。あるbarでしたが、その方は数十年通う常連客でして皆が挨拶に来るような感じでした。それは良いとして、お話をしていると今の建築界って良いのかなぁ~と思うようになります。

 この話も長くなりそうなのでこの辺で…。

 私は意外と大先輩と酒を飲んでいることが心地よいと思う方です。先日のbarでのひと時もあっという間でしたし、楽しかったです。
 2本目のウィスキーボトルが空になりお開きとなりました。

 ご馳走様でした。


6月16日 「Sixty ear's old」
コラムタイトル12-01

 少しがっかりした事がありました。私の耳は60歳以上に老化している事が分かりました。工事現場で騒音を聞き過ぎたか、耳栓をしないで石を彫刻したのが悪かったか、耳かきをし過ぎたか…酒のせいにはしたくないのですが………。

 先日、赤ちょうちんのカウンターでテレビを観ていたら、コメディアンとドクターがやっている番組で、テレビから発する音が聞こえるかという場面で私はかなり早い段階で聞こえなくなりました。最近スタッフの声も聞こえ辛く、聞き直す事も多々あり…。

 耳が聞こえなくなったら、現場での遮音・吸音の指示も記憶頼りになるのだろうとがっかりする気持ちもありますが、スタッフが育って私が現場に行かなくても良くなる日が早く訪れることを祈ります。


6月22日 「Time flies.」
コラムタイトル12-01

 あっという間に、2015年の折り返し地点となりました。

 弊社は6月末が決算の為、当期の疲れを早く癒したいと思います。梅雨入りし、持病の首痛が再発し頭痛にまで到達してしまった上に、週末はスタッフが土日も徹夜するような事態に付き合わされ、ボロボロな状態となっております。


 そんな土曜日に突然「ある美術雑誌」が送られてきまして、開けたら私の絵が掲載されていると知りました。入選はしたものの入賞した訳ではなく、こんな私の絵を気に入ってくれたのかなぁ~とプラス思考で考えるようにしました。

 私にとって建築と絵画は別物です。最近の建築は自由を失っていますが、絵画にはまだ自由があります。ただし、絵画もこうなってくると「来年も出展するように!」と言われてしまうわけでして、時間に追われて描くとこれまた自由を失うのかなぁ~と。


 私はサラリーマン生活ができない人間なので、社会に拘束されずに自由な生き方を探し求めたいと最近強く思うようになりました。スタッフは不安かもしれませんが、しっかりしたスタッフも増えてきたことですので数年後には実現していたいと思います。


7月8日 「DNA」
コラムタイトル12-01

 先週末、山形出身の知人から「実家の相談」ということで、最上へ行ってきました。


 9時に東京駅で待ち合わせ、首都高から東北道を通り古川で高速を下り、国道47号線を突っ走る。
 昼過ぎに鳴子温泉に到着し、私が学生の頃(バブル崩壊直前)に親父が購入した山へ20年ぶりに足を運ぶ。ここは松尾芭蕉が通ったといわれる奥の細道があり、小川には鮎やわさびが生息し、熊も共生。大自然の中で華子を駆け回らせようと思ったが、都会っ子の愛犬は大自然の迫力に固まる。

 以前の愛犬Hamaの墓がここにあると聞いていたが、見つけられず…。


 その山を離れると直ぐに山形県に入り、蕎麦屋を見つけ「田舎蕎麦大盛」をいただく。ガラガラの蕎麦屋ではあったが、風情も人情もあり旨い蕎麦であった。
 食休みに向かいの封人の家へ。華子はNGと言われ、門柱で客引き担当となる。案の定、我々のあとから客が何組も入場し、華子はノーギャラを不服に感じる。
 馬との共生をする古民家で、土間で仔馬が遊んだそう。芭蕉もここに宿泊したとか…封人の家を出て、散策すると華子がウン○。実はその場所には小川があり、その場所から東西へ別れ「日本海と太平洋」へ流れるという境界地であった。そんなところで用を足すとは…。


 「いい加減行かねば!」という事になり、少し車を走らせ現地へ到着。但し、家族会議をしてからという事で、私は華子と前森高原へ。
 こんな大自然の中にもドッグランがあり、華子は駆け回っていた。そろそろ行くかと車に乗せ、高原に牛の群れが…華子に教えてやると助手席から身を乗り出し、直立不動で観察。


 家に戻り、建築士としての仕事をし、そろそろ買い物に行こうと誘われる。買い物中に母方の実家が山形である事を明かし、尾花沢スイカを眺めながら会話が弾む。戻ってもう一度、仕事の話をすると買い物前とは異なり、すんなりと私の意見を聞いてくれるようになった。
 田舎の人は都会の人を敬遠するのかなぁとも思いながら、一人一升の宴が始まる。


 翌朝は美味しい朝食をいただき、お礼を言って塩竈の伯父さんの家へ向かう。
 震災後に会ったきりで、久しぶりの再会を楽しみ、寿司をご馳走になる。また来ますと言ってたくさんの土産をいただき、家を出る。

 次は若林区の叔父さんの家へ。
 先に華子の存在を知った叔父さんが、叔母さんへ「俊行が彼女を連れて来た!」と叫ぶ。叔母さんは驚いて、「聞いてない」と慌てるも華子を見て笑顔に変わる。
 「泊まっていけ、飲もう」と何度も誘われたが、お線香をあげて数時間で帰路につく。

 事務所に戻ったのが9時半過ぎ。


 実は、私は母方の血を継いでいるなぁ…と思う事が多く、大酒のみのおじさん二人ではありますが、塩竈の伯父さんは、設計士でもないのに自分の家を自分で設計してしまうような方で、現場では大工にあれこれ教えてやったんだと豪語しておりました。
 また、今回私の描いた油絵の話をすると、引退したら水彩画を描こうかと道具を揃えておいたという事が判明しました。若林区の叔父さんは幼い頃から私に野球を教えてくれた人でもあり、長島茂雄の大ファンです。若い頃は若林区の叔父さんのDNAを感じ、建築を志すようになってからは塩竈の伯父さんのDNAを感じます。
 共通するのはやはり大酒のみ、大声で酒を飲みながら笑い飛ばすところでしょう。

 次回遊びに行った際には宿泊し、一人一升の大酒のみ宴会に参加したいと思います。


7月13日 「Luck was on my side.」
コラムタイトル12-01

 今日で43年生きた事になりました。実は以前から本日の出張が決まっており「何で誕生日にスタッフと出張か…」と嘆いておりました。昨晩仕事を終えて、出航ギリギリまで酒を飲み、初めて愛犬華子を別のスタッフに預けて(華子もある意味出張)、竹芝桟橋へ向かいました。

 船に乗ってもう一杯、消灯時間が23時と言われ、それに合わせて床に就きました。そして棺桶のような狭いベッドでカーテンを閉めて誕生日を迎えました。
 43年生かせてもらえたことへの感謝をし、早く自分の創りたい作品を残さねばと思いながら船に揺られておりました。

 早朝のアナウンスで、私が帰りに乗ろうとしていた船が台風の影響で欠航になると聞きました。飛び起きて案内所へ行きましたが、「どうにもならないので、午前の便で帰ってください」と言われました。


 新島へ到着するとたくさんの人が海を眺め、ヘリコプターも飛んでおり、飛行練習でも楽しんでいるのかと思いながら、時間のない現地調査を手際よく行いました。我々は2時間で調査を終えて、施主が現れたのが9時半頃でした。午前で帰らなければならない事を告げ、急ぎで設計説明をしまして、合意に至り雑談が始まりました。

 真っ先に出た話が「昨日、若者が海に流され未だ行方不明だ」ということで、島の人々が心配していると…飛行練習ではなく、皆で探していたんだ!と軽率な思い込みを深く反省しました。その後は島の人も「まだ見つからないのか?」と私に話しかけてくるくらいでして、私を島の人間と間違えた事が笑い話にならないくらい皆が心配しておりました。


 そんな話もあり、我々はいま島で仕事をしていたら邪魔になるという事もあり、昼前の便で帰る事になりました。行方不明者の捜索を心配しながらも、早々に出張を終え夕方に会社に戻れた事だけは嬉しく思いました。


 実は予定では夕方の便で帰る予定でしたが、スタッフと「今回の出張は早く終わらせて午前の便で帰れるようにしよう」と話していたのですが、台風がやってくるという天候と島民がそれどころではないという状況が我々を早く帰らせてくれました。

 会社に戻り、華子が嬉しそうに耳を垂れて私に抱き着いてくるかと思いきや、ぐったりしておりました。彼女も出張でさぞかし気を遣い疲れたのだろうと想像しております。
 今週末が華子の2歳の誕生日です。盛大にお祝いしてあげようと思います。


7月29日 「Having said that,」
コラムタイトル12-01

 新国立競技場の問題が明るみになり、世間を騒がせておりますが、私は昨年のコラムでこの件について記しております。まったく困ったモノです。

 先々週からか数名の方から連絡をいただき、「早く新案の絵を描いておけ」などの冗談を言われたのですが、このコンペの参加資格は受賞経験があるなどかなり狭き門でして、私には参加すらできない案件なのです。
 若者にチャンスを与えるなんて、かつて都知事が言っておりましたが、真逆の事をするのが今の世の中で、ブランド好きなのでしょう。…とはいえ、隠れて新案スケッチは描きました。「頼むからこのような案にしてくれよ!」と思って描きましたが、特に発信している訳ではないので誰の目にも触れず…会社の壁に貼ってありますので、ご興味ある方は見に来てください。


8月4日 「Stay focused」
コラムタイトル12-01

 現在小笠原に出張中なのですが、先週は八丈島・京都へ出張してバタバタしたまま、土曜日に船に飛び乗った感じなので、社内がどうなっているかかなり心配しております。荷物を整理している暇もなかったので、大きなスーツケースを持参し、何があっても良いように備えていたはずでした。定宿が前半取れなくて、初めての宿に二泊し、本日からようやく定宿で仕事に励んでおります。

 小笠原に来たのは久しぶりでしたが、皆が覚えてくれておりまして、喜ばしいしだいでして、気付くとここで5件抱えていることになっておりました。昨日も自宅の相談をされまして、これで6件目、良いよ良いよと引き受けているとそのうち小笠原支店が必要になるのではないかと思うわけです。

 なんだか居心地も良く、ついつい油断してしまうのですが、小笠原の建築技術は発展途上にあるため、気を引き締めて現場を回るなどせねばならないことを思い出しました。


8月7日 「Let's see.」
コラムタイトル12-01

 建築雑誌でも紹介されているのですが、亡き師のことを書いた本が出版され、とりあえず購入してみたのですが、少し読むと読み続ける気になれず、書類の山に埋もれておりました。私は師がなくなった際にこのような本を書きたいと思っていたのですが、実現できずにおりました。少し読んで止めた理由は…取材を受けている者とそれを文章にする筆者が、彼の生き様を本当に理解しているか疑問になったからです。
 ………とはいえ、小笠原に行く船中でその本をすべて読ませていただきました。建築素人の筆者を非難するつもりは毛頭ないのですが、この本はだれが書くべきだったのかと考えております。まだ自分で回答は明確ではありませんが、いまのところ筆者は息子さんであるべきだったと思うのです。本の名称もこんなものではなく、もう少しシンプルなものにしていただきたかったというのが率直な意見です。
 何しろこれ以上、お金稼ぎに師が使われるのが…何とも心が痛むわけです。

 本の販売戦略等への思いとは別として、家族との話や耐えられないくらいの孤独感は伝わってきました。改めて強い人だったなぁ…とも思いますし、世間から何と言われようが彼の弟子で良かったと思います。


 このコラムは帰りの船中で書いております。

 今回は精神的にも疲労感たっぷりとなり、真夏の小笠原ではありますが、なんら楽しいイベントもなく働いておりました。弊社との連携がうまくいかないところがあり、汗だくになって現場で指示しているのに、訳の分からん報告があったりと…。

 それにしても小笠原は私には故郷のような場所となり、歩いていてもあいさつされたり、住宅の相談を2件受けたり、村長と酒を飲むこともあったりと…こういう生き方ができればなぁ…と思うわけです。


8月17日 「Long time no see!」
コラムタイトル12-01

 盆休み返上で仕事をしておりましたが、最後の半日だけ、久しぶりに恩師に会いに行ってきました。恩師とは、私が大学生になる前の予備校の校長先生でして、その他二人の先生も一緒でした。
 当時校長先生だっただけにお歳を召しておられ、ある病気と共生している方でして、あと何度お会いできるかも分からないこともあり、時間のある限り彼の住まいを訪ねようという事になっております。

 校長先生はとても立派な方でして、同行した先生方二人も尊敬しておられます。会話をしていても下っ端の私に気遣い、皆の話を遮って建築の話を聞いてくださるなど、正直私は酒のせいにして涙を流してしまおうかとも思ったくらいです。
 老いても話は力強く、詳細は記しませんが私には毎度勉強になります。思い出話を交えながら、君の良いところはここで、こういうところを頑張らないと…図星な助言をいただけるのが心地良いわけでして、恩師のような人格者に憧れております。

 若かりし頃、私が最もご迷惑をかけた事に関しては、忘れたフリをしてくれるのが何とも心苦しいことでもあります。


8月31日 「I could use a drink.」
コラムタイトル12-01

 7月から出張が相次いでおります。誕生日をまたいで新島へ行き、後半には八丈島、京都へ行き、8月に父島、那須、静岡、再度八丈島へ行きました。
 お盆休み中も休日作業の現場がありました。これだけ出張をしていると、施主打合せで出かけるのはその隙間の日を狙うしかなく、1か月間ほとんど会社にいませんでした。会社にいる少ない時間のほとんどがスタッフからの質問攻めでして、自分の仕事がほとんどできずに熱い夏が終わりました。

 愛犬華子は夏バテかストレスで調子が悪くなり、病院へ連れて行きました。目まぐるしい出張疲れで疲労困憊となり、夜の晩酌も会社でスタッフと話しながら飲む程度となりました。

 ゆっくりといつもの赤提灯で一杯飲みたいものです。


9月24日 「my finished piece」
コラムタイトル12-01

 以前、私の絵が「美術の窓」という雑誌に掲載されたとお伝えしたかと思いますが、同誌の10月号の特集にまた掲載していただきました。今回は1ページの掲載でして、コンセプト等も記させていただきました。また絵を大きく掲載していただけたことで、苦労して描いた細かい部位も少しは皆さまに観てもらえるかなぁ…と。
 ただあら探しされてしまうかもしれません。実物は80号という大きな絵なのですが、このくらいで観ていただくのがちょうど良いかと思うと、会社の倉庫で眠るこの絵がかわいそうにはなります。

 この絵をどこかに飾ることができればなぁ…とは思っているのですが、なかなかこれだけの大きな絵を飾るスペースはなく………。


9月28日 「I'm rooting for you.」
コラムタイトル12-01

 一級建築士の2次試験が間もなくとなりました。弊社で1次試験を突破したスタッフは、毎晩眠い目をこすりながら製図試験に向けて励んでいるようです。

 実は私が一級を取る時に、黒川事務所の上司から教えてもらった秘伝の作図テクニックをそのスタッフにも伝授しまして、大分製図力が上達しているようで、残り2週間を切りましたが、何とか合格してもらいたいと願います。
 私は…、製図試験はあまり真剣にやらなかった思いしかないのですが、昨今はCADに頼る作図が当たり前になっていて手描きの製図に慣れないからか、皆結構一生懸命訓練しているようです。

 CADが主流なのに何故手描きで試験をするのかという疑問がないわけでもないのですが、まぁ~基本は手描きという事なのでしょう。


 2次試験は良いとして、1次試験で落ちた輩もおりまして、昨日彼らを一喝しました。本当に取得したい気持ちがあるのか、それは何の為なのか、誰の為なのか、彼らの人生を左右するはずの資格であるので、真剣に取り組むように伝えました。
 1次試験さえ通れば、あとは秘伝の作図テクニックで受からせる自信はあるのですが、学科は本人の脳みそに叩き込んでもらわないといけないので…。

 来年は全員一級建築士合格を目指します。


10月14日 「We should give it a try.」
コラムタイトル12-01

 一級建築士の二次試験が終わった翌日、若いスタッフを連れて、私の過去の作品を巡りました。今回は集合住宅のテーマである母胎住箱の4作品についての見学でした。


 私が黒川の弟子だった際に、彼の許可を得て個人的に創った「In Cube」と「In Zebra」は、竣工から15年くらい経ちましたが綺麗に使われており、スタッフに説明しながら…実は少し嬉しくなりました。若いスタッフの年齢くらいに設計した建物でしたが、当時のことを思い出し「あの頃の自分は今の自分をどう思っているか…」と反省もしたりしました。

 独立して、現在の私の中での代表作である春日部共栄の中学棟と同時に着手した「Torso」は、その進化形であり、前作を見ればこの作品に対する想いとメッセージが伝わるかと考えておりました。この建物は10年くらい経ちますが、これまた綺麗に使われており嬉しく思いました。


 最後に見た「和泉長屋住宅」は、この概念をもとに景観等にも配慮された作品であり、現在の集合住宅に対する私の理想形でもあります。竣工してから5年近く経ちますが、樹木が成長し、竣工当時よりも美しい空間を演出しておりました。


「In Cube」と「In Zebra」は、私の概念虚しく社会ではルーバー建築として流行り、「Torso」は路地空間のある重層長屋建築としてこれを真似たものが現在の建築雑誌にチラホラ出てくるようになりました。和泉長屋住宅のような中庭を囲むコモンスペースを持し、かつ景観に配慮したヒューマンスケールの集合住宅はこれから流行ることでしょう。

 さて、今回の見学会で若者が何を感じたか不知なのが残念なところではあります。私が彼らと同年代に創った作品は、今の私は「若かったなぁ」と思う箇所もありますが、厳しい条件下でありながら、かなり情熱的に建築を追及していたと思います。これをクダラナイと思うか否かが彼らの建築士としての将来像へと変わると感じます。
 如何に建築と向き合い挑戦し続けられるか…彼らとこれから建築を目指す者にエールを送ります。


10月26日 「Albatross 1」
コラムタイトル12-01

 先週の月曜日から木曜日まで出張しておりました。式根島と利島へ行ってきたのですが、何故か失敗の連続でした。私にはこの二島は合わないのかもしれません。

 月曜日の夜にスタッフらと酒を飲んだ後に船に乗り就寝し、火曜日の朝利島の手前で起床しました。この日は利島に着岸するも式根島に向かうのでスルーし、式根島に上陸しました。上陸すると数年前に弊社で設計した日除けが頑張って建っており、写真を撮り宿へ…宿には生後2か月の子猫がおり、挨拶をして現場へと向かいました。


 島の現地調査は植物や昆虫に邪魔されながらの泥まみれで、大きく綺麗な蜘蛛ともニラメッコ。夕方には調査は終わり、それを図面化するスタッフを横目に私は汚い体を洗おうとシャワーを浴びました。ところが、お湯が冷たく体が温まらないまま、スケッチを描こうと思い部屋に戻るとクシャミが止まらなくなりました。
 隣で図面を描くスタッフに迷惑をかけました。


 酒を飲み始めるとクシャミは止まり、通常の宴をして部屋に戻ると私の布団がなく、アルコール満タンなのにバタバタしました。やっとの思いで床に就くと、天井裏で運動会が始まりました。ネズミかイタチか猫か分かりませんが、私はほとんど眠れず、テレビを付けたまま騒音をごまかそうとしましたがダメでした。
 クシャミはこいつらのせいだったのかもしれません。


 朝起きて、寝ぼけたまま身支度をし、後に気付くのですが、ここで頭に付けるジェルを忘れてきました。

 利島に渡ろうと船を待っていると強風波浪で船が着岸できず、一旦港から離れてやり直しようやく乗船しました。大型船なので、乗船してしまえばあまり揺れることもなく利島に上陸しました。
 利島に上陸すると宿の方が迎えに来てくれておらず、数分でしたが待たされました。

 宿に荷物を置いて現場まで私が運転するも、あまり場所が分かっていなかったのでテキトウ運転は道を間違え、到着時刻が遅延しました。
 現地調査は大したことはなかったのですが、戻って風呂に入ろうとすると忘れ物に気付きました。「輪ゴム貸して」と声をあげ、ピンクのゴムを貸してもらいました。


 夜の宴は伊勢海老づくしでかなり美味い料理でしたが、食べ過ぎてアルコールが進まず、島の焼酎一升瓶を空けることができませんでした。これを持ち帰るのも忘れました。

 その晩、寝不足からか私がかなりイビキと寝言を発したらしく、朝起きて隣の部屋に泊まったスタッフから「うるさくて仕事にならず、眠れなかった」と笑われました。
 申し訳ない事をしました。申し訳ないという気持ちのまま船に乗ろうとしたのですが、財布に入れていたはずの乗船券が見当たらず、ロストしておりました。
 船に乗り、私の席が分からないままでしたので、スタッフらと船底の大部屋へ行きました。

 申し訳ないという気持ちから、私は船に揺られながら別件のスケッチを描いておりましたとさ。


10月26日 「Albatross 2」
コラムタイトル12-01

 世間を騒がせている杭の偽装問題ですが、簡単に私の思っていることを記します。

 杭屋が単独で偽装できるわけがない。勿論最初の工事であるから準備などで時間がかかり、ゼネコンや施主または我々設計監理をイライラさせることはある。でも単独で設計と異なる施工をするなどありえない。必ず施工会社や監理も立会って確認をする工事であるし、それをトカゲの尻尾切りのように一個人または会社の責にしているのが意味不明。
 杭屋ではなく、ゼネコンである三井住友建設が責任を取るべきであり、何故メディアが杭屋だけを袋叩きにしているのか、これがまさにメディアコントロール。
 ついでに、金儲けのことばかり考えて建築をないがしろにしているデベロッパーが日本からなくならない限り、このような事件はなくならない。


 世間は建築を馬鹿にし過ぎだと思うのです。衣服とは異なり、簡単に買い替えできるものではなく、それを大事に責任もって設計・監理するのが我々の役目です。建築士を飼い犬のように扱うデベとは付き合う必要もないと思っていますが、それに飼い慣らされてしまっている輩は今一度、建築を志した初心に戻って建築と向き合っていただきたいと思います。


11月6日 「Albatross 3」
コラムタイトル12-01

 先週のコラムに記したことが通じたようで、昨晩だったか三井住友建設も事情聴取されると聞きました。まぁ、どうなるかしばらく様子見ということですか…。


 先週の土曜日に私の代表作の見学会を行いました。20名弱の参加で、私も久々のご対面でした。作品についての説明をしている最中に、私の現段階での代表作はこれだなぁ~と思いながら、当時の情熱や苦労を思い出しておりました。

 この作品の工事中、現場の人たちは、田中が今日は何の絵を描くのか楽しみにしており、皆で良いものを作ろうとチームワークも良かったと思います。この建築が竣工して以来、私はこのような建築現場にお会いできておりません。現場の所長が「それは田中が納得しない!」と部下を怒鳴っていたり、「ここに合う(既製品の)水鉢がないから自ら彫ってくれ」と頼まれたり、どうしてもコンクリートが綺麗に打てなくて何度も斫って打ち直ししたり、「施工図でうまく表現できないので現場で墨を出すから見て欲しい」等、皆がその建築を実現するために心が一つであったと感じます。
 私の指示が誤って失敗した箇所は、当時は眠れないくらい悔やんだものですが、今はそのミスも懐かしく可愛いものに映りました。


 竣工して約10年、私はまだこの作品を超えるモノを創れておりません。10年前の私は現在の私に激怒していることと思います。何故、この作品を超えられないのかは、私のアルコール摂取量が増えている原因でもあるのですが、流行りの建築…いや建築界…そして社会に問題があるからだと思います。人の心が希薄になり、建築を創る意欲が低下し、施主も含め携わる建築士らが建築に対する情熱がなくなったと思います。


 私はそんな社会に束縛されるのを好まず、表現の自由を求めて油絵を描き、スタッフを育て技術を磨き、いつか訪れるであろう次のチャンスのために己の刀を磨いております。


 「Albatross」をテーマに3回連続でコラムを記しました。ただ今回の「アホウドリ」は意味が異なります。簡単に記しますと、アホウドリは人を警戒しない鳥で簡単に捕獲できるのでアホウドリと呼ばれます。でもその羽は強靭でイーグルよりも遠くまで飛べるのです。ゴルフ用語でバーディ・イーグル・アルバトロス・コンドルとあるのは、その飛距離の順を意味しております。
 私から建築が除かれれば何もできない酒飲みオヤジです。他人から騙されようがAlbatrossと言われようが、絶対に建築に対する情熱や純粋さを失わず、スタッフらと共に大空へ飛び立ちたいと日々精進します…、と10年前の私に誓います。


12月7日 「Adidas」
コラムタイトル12-01

 松原団地に住んでいた私は小学生から硬式野球をやっておりました。最初は友人に誘われ地域の軟式野球チームに入ったのですが、1か月もしないうちに父親から強制的に硬式野球チームに入らされました。楽しく野球をするだけのつもりが、全国大会にも出場する野球チームへ加入したのです。硬式野球のグローブは家になく、父親が戦後に使っていたグローブを借りておりましたが、皆から笑われ母親の説得もあり新しいグローブを買ってもらいました。

 当時はグローブといえば「MIZUNO」でした。そのマークがグローブの親指あたりにありまして、赤丸に白いカップが縫ってあるのが硬式用、青だと軟式用でした。私は当然、赤カップのグローブを買ってもらえたと思って袋を開けると…青でした。しかもカップではなく見たことのないマークでした。よく見ると「adidas」と記されておりました。
 父親は硬式用だと言って私に渡してくれたのですが、青=軟式というイメージは当然チームメイトにもあり、私はずっと「硬式用のグローブを買ってもらえない奴」と馬鹿にされていました。

 今思えば、誰も持っていない格好の良い硬式用グローブだったのですが、adidasさんも少年の心を察して硬式用は赤を使って欲しかったと…。


 それ以来私は「adidas」製品を避けるようになりました。大人になって運動もしなくなり、ゴルフクラブも捨て、スポーツ用品すら買わなくなりました。グローブの事などすっかり忘れて運動不足に気付いたのが5年前くらいでしたか。長く歩くことさえできない状態になり、少しずつ歩く距離を伸ばそうとウォーキングを始め、運動靴が欲しくなり、何の靴を買うかと迷っている時にこのグローブの話を思い出しました。

 過去の自分への反省から私の靴はいつも「adidas」です。1年でボロボロになるくらい歩いているので毎年正月に買い替えており、今度で5足目となります。加えて防寒着やジャージも「adidas」です。
 30年以上前の苦い思い出が、私に「adidas」を身に着けさせてくれています。


 社内バタバタで、11月から師走のように働いております。コラムの更新ができずに失礼しました。


12月10日 「Life is too short.」
コラムタイトル12-01

 誕生日月に健康診断ができなくて、先日健康診断をしてきました。

 F=G・Mm/r2にはかなわないらしく、体重は減っているのに腹回りが大きくなったと測定されました。その他、問診では怒られ「生活環境を変えないと早死にする」とも言われ、「そりゃ、無理だろう」と独り言を発して帰ってきました。

 右耳は高音が聞こえなくなり、血圧は何度も測り直しを強いられ、超音波では肝臓を痛くなるまで押され、バリウムを飲んで汗だくになって回転し…私は一体何をしているんだろうと考えながら昼食をとりました。


 愛犬華子よりは長生きしたいと思っており、60歳くらいまでは何とか頑張りたいと思います。「私は死ぬまで建築に携われるのか?」と思うのと同時に、「人生はあっという間に終わるだろう」と考えると、「他に何かしたいことないのか?」と自問自答するわけです。


 私が今一番したいことは、Self-buildで自邸を作り、油絵を描きながら華子とのんびり暮らせる空間を創りたいと思っています。昨年から土地を買おうと思い、買い付けまで出していたのに、他者に売られてしまったという出来事が悔やまれます。


12月18日 「Eye-popping」
コラムタイトル12-01

 健康診断結果が送付され、先週コラムに記したとおりの結果となりました。その他諸々怒られております。

 私は皆に「肝臓の数値は鍛えれば下がる」と半分冗談で言っております。2年前は200を超えておりましたが、昨年120くらいに下がり、今年は何と!!!「55」まで下がってしまいました。健康診断の前日以外は364日飲み続け、ここまで下がるとは驚きです。肝臓は健康になりました。

 私が死んだら…この強靭な肝臓は高く売れると思います。または解剖して研究していただいた方が世の中の為には良いのかもしれません。師走の忙しい時に少しだけ気持ちが明るくなりました。


 明日土曜日は八丈へ出張、23日は祝日ですが葉山出張、休んでいる場合ではありません。


12月26日 「I'll make it work.」
コラムタイトル12-01

 本年の弊社の業務は、26日までとなります。
 今年は社内忘年会もできないほどの忙しさでして、あっという間に時が過ぎ去ったように感じます。厄が明けたので良い年になるかと思いきや、来年に持ち越しとなった嫌な問題や、なかなか思い通りに進まないプロジェクト、私の体調不良も重なり、100号のキャンバスから「何故描かないのだ!」と怒られているのに気付かないフリをして、本業に没頭しておりました。

 しかしながら、ある企業から業務内容を評価いただき、いくつかの設計・監理業務を依頼されるようになったり、小笠原の島民や企業から住宅の設計依頼があったり、伊豆諸島の仕事をしたり、京都や葉山、那須にてある意味「人が入れない場所」での設計を受けたりと…良い巡り合わせがあった一年でもありました。
 本来であれば今年中に設計を終えたかったある住宅は、お施主様の心意気もありましてかなり力の入ったものとなり、これは来年へ持ち越しされた案件となりましたが、短いであろう私の人生の一年をこの建築に捧げても良いなぁと思える作品となるかと思います。


 来年は良い年となるよう、まだまだ精進せねばならないと感じております。
 油絵は…正月に何とかします。


バナースペース

株式会社田中俊行建築空間設計事務所

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